絵を描いて描いて描いて得るものはなんだろうか。
前よりも上手く、早く描ける様になった絵。意欲的に時間を描けて大作に取り組める技術と探究心と意志の力。きっと色々あるだろう。
私は昨日の夜「好きなデザイナーが辿った道筋を同じように辿れる可能性がある」というとても喜ばしいことに気がつけた。
それがどれだけ嬉しいかというと絵が下手な中で練習していて良かったし、このタイミングで始めたことをラッキーだなと思えるほどだ(それまでは小さい頃に無意識にこういう基礎を積み重ねられてれば楽だったのに。と思っていた)。
私は何度か、Niklaus Troxlerというスイス人のグラフィックデザイナーにこのブログで触れている。それは好きだからだ。
知性を感じさせるシンプルで明確なそしてユーモアや想像力を掻き立てるグラフィックはもう10年近く好きで、今でも何か物を作るときの評価基準に
「それはニクラウス的か?」
とか
「トロホラー感はあるのか?」
と自分に問いかけるほどだ。
なので私が描く絵のゴールはもちろん「niklaus troxler的な何か」になっている。
troxlerart.chより引用
この精密ながらも洗練された様子の美しさはなんということだろう。
10年前でも、今でも同じように美しく思う。ある時期はこういった楽器と何かを混ぜる作品が多く、この頃に纏っている雰囲気が好きで最高だなと思っているので続けてもう一つ引用させていただきたい。
troxlerart.chより引用
なんて見事なビジュアルだろう。絵の良さだけじゃない。
「River」だから魚がサックスの中から飛び出している。
演奏者はきっと体と楽器を水に浸しながら川を渡ったに違いない。そんな想像がこの一枚に含まれることにクスリとする。
この時期のものが好きは好きだが、作風は変わり続け、表現したいものが変わっている。
troxlerart.chより引用
troxlerart.chより引用
troxlerart.chより引用
最後のこれは2017年のものだが現在に近づくに連れて徐々に音のようなものを表現しようとしている気がする。楽器ではなくその場で奏でられるであろう「音」を。そして今は彼は奏でられる音だけでなく楽器がメカニカルに動く操作音もポスターに表現しようとしているように思える。
このポスターは楽器のメカとしての面白さをリズミカルな色分けで表現しているのがすごい。CMYKをそれぞれ100%で4色でやってる点は若い頃に得た最低限の表現で形にする完成が研ぎ澄まれていて見ていてキツくすらなってくる。すごすぎる。
溢れ出るNiklaus Troxler愛で随分話が長くなったが私は今、彼と同じような経験ができているかもしれない!と嬉しいのだ。
シンプルになるべく忠実にカチッと描く。
見えるものにもっと、興味関心を持って描いてみる
見えるものが描けないことを恐れずに危険水域に突っ込んでみる。
突然「こう行ってみてはどうか?」と線の引き方が見えてきて恐る恐る進める。
とりあえず危ういまま攻めて見る。
「靴が描きたいんじゃない、新品の靴ならではの紐の慣れていない感じとか羽根の閉じきっていない様子、突然見えるパキッとした光沢が描きたい」
これを描いているときはそういう気持ちだった。
このスリルのある賭け、没頭しながらも自分を確かにコントロールする場面も必要になってくる作業は非常に面白い。油断して「やってしまった!」ということすらも面白い。上の絵は描き終わったあとに壁面の板の連なりを手癖で描いて、この絵の魅力をひどく下げてしまった。
このエキサイティングなひとときは自らの寿命と引き換えに周囲の人間の寿命が見えるような「目の変化」が巻き起こす。なぜかある日そう見える。面白いとしか言いようがない。そしてそうなる頃には「行けんじゃね?」と手はある程度の準備はできているようで、心はもう決まってしまう。
そういった体験をされてみたい方は「デッサンの55の秘訣」の画家の筆跡の章は非常にオススメだ。
理由は簡単で私はその章を見て模写の課題を一回終えた後に靴の絵を描こうと思ったら目が見る靴は課題を行う前と違っていたからだ。
今、私は彼を追うことができていると思えている。絵を描いていてこんなことになるとは思いもしなかった。
先週の記事です。
こちらは「ペンで描く」の記事です。