中山製靴のチロリアンシューズ、最近履く機会が多くて「ああ、そういえば結構経つよな」と思ったので書くことにした。
一年の殆どを革靴で過ごし、下駄箱の都合でスニーカーともお別れしているのでスニーカーの履き心地なんてとうの昔に忘れたのだけど、そうでもなく革靴とスニーカーが半々みたいな感じの人の感覚に近いものをたまに感じる。
それは「足を休ませる」ということだ。靴なんて、フィット感にOKを出すサイズ選択がそれぞれなのだけど、僕は割とピタッと履く人。それで全く問題はないのだけど、時折こういう少し楽な靴があると嬉しい。
革靴は凝りだすと途端に「品」とか「味」とか言い出したりするものなんだけど、毎日毎日毎日ひたすらに履いて、数も増やしてと行っているとそういうことは「誰かに見られる自分」とか、その反対の「自分が見た誰か」に対する話ではなくなってきて、自分がそれをどう思うのか?なんて話にすごい近づいてくる。
自分にとってこの靴はどういうものなのか考えたり、役目を与えたり、求める役割を果たせるものがない(ということにして)から新しいものを買ったりする。
僕がこのチロリアンシューズを手に入れた理由は、ダラダラ履く革靴が欲しいなと思ったから。だってこの靴のデザイン、どう見ても完璧に足に沿うなんてことはなさそうなんだし、脱ぐときも紐をぐいっと引っ張って一気に緩めてガボッ、ガボッと脱げばいい。
それととにかく硬い。型崩れ全然しないもんな。もう結構馴染んでるから履いてる分にはそういう硬さは感じないんだけど、脱いで靴を見たときにビシッとしてる。
まぁ本当にこういう靴は貴重です。変な理屈を付ける前にぽんっと履いて、ドレスシューズの品でもなくワークブーツのとっぷりと油を塗りたくられた漢らしさでもない、ただなんとなく履く様子とかこの靴のおかげで革靴を履く生活がしっかりと成り立ったりしてしまう感じとか、そういう無頓着そうで愛しているみたいな靴を履く楽しさとかを味わってもいいと思います。
しかも最後の最後に要確認という感じで書いちゃうけどこれ、オーダーメイドだからね。細い・普通・広いの木型の中から選んで作れるというだけでも非常にありがたい。
しかし60周年とは長い。
前の記事