Re:11colors

毎週木曜日更新(2023年5月現在)。模型、日常。面白いことあれば他の日も

プラモデルにおける人形は服を着た人形だという話。

実際に人って作れないよなといつも人のプラモデルを作りながら思っているんですけど、だからこそ楽しいみたいな感じが私の中にあります。

 

人って創作活動で一種の花形みたいなところがある。靴の絵が描けるより、目の前のあなたの似顔絵をぱぱっと描いて差し上げられたほうがきっと尊敬されるだろうし、自分の手で可愛い女の子や美人のお姉さんの絵が描けたら間違いなく楽しい。やっぱり人を創作することは私の中では他の創作とは違う、別格といった趣がある。

 

mihairu.hatenablog.com

 

彼の素晴らしいブログを見て思わずタミヤの1/35ドイツ歩兵セット(大戦中期)を手に入れたのだけど、人のプラモデル(フィギュア)の面白さにつくづく驚いた。というのもよくよく考えると、人にはパーツ分割の制約が無いのである。

 

無い、というのは例えば車ならタイヤとホイールがどう分割されるのかとか、戦車だったら、飛行機だったらと、大抵ルールみたいなのが通っているのだけど、それが無いということ。実際にはそんなのは無視して、僕らがあっと驚くような分割をしてくれても構わないのだけど、車はこう、飛行機はこう、という常識みたいなのがあって、そこを無視できないのが乗り物系のプラモデルの制約だ。

これはきっとそれぞれのモチーフとなる実物が実際に人の手によって作られることや、なんとなくこういうものだと共通理解がなされているからで、それに沿ってプラモデルの設計を行ったほうがスムースに組み立てられるからなのではないか。常識を上手につかうというか。

 

その点、人の実物を作ることは僕らにはできないので、作る上でのモチーフの共通理解というのは、実は無い。せいぜい子供の頃に遊んだ人形の首が回ったり、脚と腕が動いたりするので、大まかにそういう分割になっているという「人形に対する理解」がそのまま人のプラモデルの分割と近似性を見せている程度だろう。ところで「人を作る」とは言うが、彼らは「服を着た人」なので前身頃と後ろ身頃でパーツが分かれているのは正解に思えるが、どうだろうか。

 

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実際、前後で分ける分割は昔のフィギュアで存在しているが、これはそれとは違うかなりチャレンジングな内容に思える。「普通」だったら脚をくっつけて、胴体、左右の腕、顔……というような手順とはぜんぜん違っていて、そもそも人を分割する上で「モチーフに近しい分割というのは無いのだ」というような気付きや、従来的な分割は「人形の分割だ」と、既存の思い込みを取っ払うような設計で驚きを隠せない。そして「服を着た人を作る」ので服のように分割をするというのは悪くないアイデアだ。

 

無論、少しプラモデルに明るいとウォーハンマーの影響の話は出てくるだろうが、あっちはあっちで「何が何でも(一見メチャクチャな分割になろうとも)良い形を作る」というような発想が見て取れる。一方でこの兵士は、服に沿って分割をしてみてはどうか?というアイデアの可能性がある。「変態的」と称されることもあるウォーハンマーの分割のようで「服の合わせ目で割る」といった秩序がある。

 

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「人形は、服を着た人形である」とフィギュアの常識を見直したかのようなプラモデルがタミヤの1/35ドイツ歩兵セット(大戦中期)なのではないか。

 

 

今週の物販

 

 

 

カメラで寄るとわかる塗装という行為

カメラのレンズを思いっきり無塗装のプラモデルに近づけて写真を撮るとわかるのは、プラスチックやレジンなどの素材の面白さで、素材がむき出しであることが一目で分かり「本物だな」と反射的な納得がなされるという事実。

私はプラスチックがプラスチックであることやレジンがレジンであることに納得して、プラモデルをなにかのレプリカではなく、有り体に言うと「そういう素材の置物」と定義した場合の本物さに非常に関心した。ダイヤモンドに寄ってみたらやっぱりダイヤモンドだったみたいなそういう話。

 

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塗装をしたものに寄ってみると私の拙い腕前もあって、きっとなんの本物感も得られることなく終わるだろう。全然楽しくない時間が流れる。だから、塗装なんてするもんじゃない。と2日くらい前は思っていたがこれは違った。

おそらく、塗装をしたものに寄ると分かるのは塗装という行為の一種の気高さだろう(といっても当人たちが気高いとか言い出すと私は困る)。実際に無塗装と塗装は明確に線が引かれているが、塗装の中には当然、上手い下手がある。非常に上手いものに寄ったら、モチーフになったものと比べて「本物みたいだ」と思うだろう。「本物の人みたいだ」と。

 

塗装という行為は、一度やってみると分かるがどうやっても実物(ここからはモチーフになったものを実物と言う)どおりにならないという、プラモデルと実物の間にある薄く透明な壁に気づく。人なんかは特に大変なもので、欲望に任せて黒い点で目をちょんっと置こうものなら、てんでどうにもならないとう事実にぶつかってしまう。むしろ、目なんかは描かないほうが良いという賢明な判断で実物とうまく距離を置いたほうが良いとすら思う。

 

つまり、無塗装よりも悪くなってしまうことがある。実物に迫ろうとするがゆえに実物とのギャップが明らかになってしまう。ここで私のように「無塗装の方がプラモデルとして本物なんだぜ」と強いスタンスを出すのもいいが、そればっかりではダメなのが現状でもある。むしろ、塗って実物に近づこうとしたことのほうが、良手だとされることがほとんどではなかろうか。だっていずれ、大なり小なりうまくなるので。

 

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この「実物に近づこうという行為」を真剣に行う場合の気高さは非常に面白いと思う。一旦、足を踏み出してうまく行かないことに気づきながらもなお、実物に迫ろうというわけだ。一度、断られているのに、最後にはOKをもらうというような、ストーリーがある。

塗ることで一旦、プラモデルにも自分にも裏切られたような気持ちになっても、なお上手くなろうとし続ける。そして、レンズが被写体に触れそうなぐらいに「寄っても良い」ものが出来上がったときの良さは、とても良いものなんじゃないか。

もちろん、寄らなくても良い。うまくなり続けようとしている限りは素晴らしい可能性がある。

 

というわけで、私はうまく塗り続けようという人は、好きです。

私も、たまには塗りますが、無塗装でうまく組み立て続けようと思います。

 

今週の物販

 

 

 

 

一生モノの腕時計

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G-SHOCKってボタンの位置を変えていないんですよ。なのでG-SHOCKを一度使ったことがある人は最低限の機能はなんとなく使えるようにできているんです」

 

先日、ちょっと外した感じに上着やシャツの袖の上から巻きつけるように着ける時計としてG-SHOCKを買おうと急に思い立ったのでヨドバシに立っているカシオの店員さんに接客を受けていたらこんなことを教えてくれた。

 

G-SHOCKはアマゾンのレビューを見たりすると欲しいと思ったモデルが「中学生の息子への誕生日に」「甥の入学祝いに」みたいな感じで、まさに幅広い年齢に愛されているという現実を知ることができる。これは良いことだなと思うし、それと同じ位の気持ちで「俺が買った時計がややもすると中学生がつけているものと同じ」という状況に少しヒヤッとする。そう。俺もいい大人なのだ。しかも場合によっては同じくらいの歳の大人が子供に買い与えてる。ま、俺も二年くらい前に買い与えてるのだけど。

 

そんなG-SHOCKの衝撃的な話が先の「ボタンの位置を変えていない」という話だ。これはなるほど恐れ入ったという感じで、あれだけ多様なデザインでも左右に2つずつ付く4つのメインボタンの役割は同じだという。これほどまでに買い換えられた際に違和感なく使えることを意識した設計だったとは、くり返しいうがあの多彩なデザインでそうであるとは思わなかった。正確に言うとそこまでG-SHOCKの操作に関して意識をしていなかった。ただ、それが面白いと思った。一度使った記憶があれば、どのモデルであれもたどたどしくとも一様に使えるのはとてもおもしろい(そもそも時計を始めとする機械全般がそういう、操作性に違いがあってはいけないということだとも思うが)。

 

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どれも一様に使えるということで買い替えのハードルはぐっと下がったので好きなものを買おうと、手に入れたのはグラビティマスターと呼ばれるモデルのもの。型番でいうとGR-B200RAF-8AJR ということでロイヤルエアフォース、イギリス空軍とのコラボモデル。G-SHOCKに頻繁に使われる"差し色の赤"が苦手なのでそうではないものを同品番で探すと今のところこれが唯一の選択肢だったり、あとは飛行機にハマっているので丁度いいなと思ったりして手に入れた。

 

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〇〇マスターとつくモデルはG-SHOCKの中でも上のラインのようで、アナログ表示なのが特徴なのと、マスターと似ているレンジマンだとかマッドマンだとかフロッグマンなどのマンシリーズにも言えるのだけどこの辺のラインはデザインが少し落ち着いている。派手といえば派手なんだけど、コラボ物以外はあんまり突飛なことはしない。要素の多いデザインを各々のラインのムードが仕切っているというような感じで、空っぽいだとか海っぽいだとか、陸っぽいという様子をしっかりと出している。

 

G-SHOCKはモデルによっては結構デカいくせに、どれもめちゃくちゃ軽い。これは単純に驚く。そして着け心地も良い。グラビティマスターは左右非対称のデザインではあるが、フロッグマンのようにラグの位置がずれているわけではないので右腕に時計をつける私にも特に違和感なく着けられるのも良かった。

 

G-SHOCKがすごいのはあんなにデザインが派手で多彩なのに、乗り換えても操作性が変わらないというところだと思う。一度、G-SHOCKを着けたことさえあれば俺たちはいつでもG-SHOCKを買うことができる。値段だってハイグレードのMR-Gとかそういう物を買わなければ、買えない価格ではない。

 

操作性という信頼と手に届きやすい価格、そして壊れにくいという信頼から、一生に何度でも、思う限り、G-SHOCKを買うことができるのだ。

 

今週の物販