Re:11colors

毎週木曜日更新(2023年5月現在)。模型、日常。面白いことあれば他の日も

今週はお休みです-Lost KingdomのSakura Archersを少し-

熱中症のような感じになりましたのでお休みします。

 

 

Lost KingdomのSakura Archersを塗りました。

 

 

もう少し塗り込んでも良いかなと思いますが、このままでも良い気がします。

なにせ体調が悪く、進めてもミスりそうなので。

 

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サベージランドミニチュア

LK-210904 Sakura Archerssavagelandmini.com

 

今週の物販

 

 

 

 

パンツを紫色に塗ったら感覚を理論が追っかけてきた-塗装日記 6/12-



 

感覚で塗っていた塗装に、ある日突然気づきが生まれる。そして頭の中にインストールされていた言葉としての理論や技術が、急に実体を帯びて目の前に広がる。

 

「とりあえずこんな感じだろう」とウクライナのプラモデルメーカー、ICMのあまりにも曖昧な塗装指示書に好感を持ちながら手持ちの塗料の中からいい感じの紫色を塗る。そのあとはジャケットの塗装。フリーガーヤッケと呼ばれるドイツ空軍のジャケットは特に制服が決まっていなかったため、それぞれが独自に仕立てていたという。

 

今、塗装をしている彼は典型的なフライトジャケットのような裾がリブ仕上げのものではなく、シャツのようなラウンドカット。良いセンスだ。というのも英国のファッションブランドのバラクータで同様のことがあったからだ。裾がリブ仕上げのG-9はスイングトップと呼ばれた。その「スイング」はゴルフスイングを指す。そして、その裾のリブを廃したものがG-4だ。G-4の別名はドライビングコート。つまり運転するには裾のリブは不要であるということだ。

 

 

このような服飾史的な発展を自力で発見し仕立てた彼のジャケットを塗るのは楽しみだった。指定色は黒だ。果たして、どんな黒が良いのだろうか。

 

「黒をどんなふうに取り扱うか」というトピックに関してはすでに私の中で結論が出ている。それは高校生の頃に見た、テレビ番組で「13色の黒を使う画家」というタイトルで放送された回を見ていたからだ。黒は、一色ではない。ましてや青みを足せばいいとか、赤みを足せばいいというわけでもない。「黒は慎重に考える必要がある」では、どうしたら良いのだろうか。

 

パンツの紫色を見ながら、私は肌色の下地を何色にするか、悩んでいた。私は水色や黄緑を使うことが多い。「今日は、黄緑だな」そう思ったときに、急に気づく。「パンツの紫と、黄緑は補色、少なくとも反対色だ」。私の見る世界は急に変わることになる。

 

 

そもそも、水色や黄緑を肌の下地に使うことには「コントロールカラー」というメイク用品の概念を取り入れたかったからだ。それはやがて補色対比のような役割を期待するように変化して行く。

 

「コントロールカラー」は肌の悩みに対して使われるものだ。反対色のクリームを用いることで肌の透明感を損なうことなく、悩みを解消するのが狙いである。なので、調べてみると「厚化粧にならずに肌の赤みを抑えたりすることができる」みたいな話も出てくる。ここでいう”透明感”とは文字通り「透き通った感じ」そのもの。なので、多くの色を塗り重ねすぎると失われて行く。この辺の理屈は「塗装面に載った様々な塗料の粒が色を吸収し過ぎて濁ってしまう」みたいな話になる。

 

対比のロジックは頭の中に入っている。紫の補色や反対色は黄緑である。黒に自然と黄緑を混ぜ、塗装が始まる。補色や反対色は、互いをより明るく、より暗く見せる効果がある。

 

 

感覚に理論がついてきて、理論が感覚を確かなものにする助けになる。まるで、ギターのコード進行や、ラッパーの韻やフロウと言ったものが身体にはっきりとしみ込んだ感じ。

 

影の色は、ハイライトの色はどうすればよいのだろう。いったい、どれくらいの精度でこの気づきを適用すればよいのだろう。そう思うとクラクラしだす。ブーツの黒に、茶色を混ぜたあたりで「ああ、さらに発展したな」と感づいた。スプリットコンプリメンタリー配色だ。厳密な補色を使わずに、好みで黄緑を塗っていて、ラッキーだった。感覚が理論で補強されて、力強く推進するための助けになる。面白すぎる。

 

あまりにも楽し過ぎたこの時間は、最高のパイロットの出来上がりをもって終わりを告げた。果たしてこのような配色テクニックを筋道を立ててから狙って行く必要があるだろうか。私にはわからない。「感覚を理論が補強している」という感じからすると、あくまでも後からついてくるものなのかもしれない。それにしても積極的に「要所要所を色で引き締めて行く感覚」は、リズムをキープするような楽しさがあって、気分がよかった。

 

今日の物販

 

 

 

 

 

役に立たないものでい続けたい

 

私が革靴の記事をめっきり書かなくなったり非公開にしたことには理由がある。ぶっきらぼうにいってしまえば「役に立つもの」として認識されるようになったからだ。そして、その様子がSNS観測できてしまえる状態なのが今、というわけだ。

 

私は「自分のブログにおいては有益な情報を書きたい」と思うことはあまりない。どちらかというと「自分の体験を記しておきたい」とか「気づいたことをまとめておきたい」とかそういう感じのもので、たまに通りかかった人が見てくれれば良いなみたいな感じだと思う。もしかするとTwitterとかの関わり方もある意味で往年のブログ的な接し方に近いのかもしれない。ほんのりコミュニティが形成されている感じというか。

 

なのでこのブログに関しては「役に立つぞ!」という感じで評価されると「もっと役に立つ情報を握っているぞ!」という風になることは少ない。SNS上で己の影響力を確認することはあるし、もっといいねやブックマークがつけばと思うことはあるけど。

 

 

革靴の話に関していえばもっと話したいことや書きたいことはある。ただ、それは「会って話そうぜ」と思ったり、文学フリマなどの同人誌即売会で伝えるようにしている。そういうところでしか言えないことは少なからずある。そこでしか通じ合えない何かがあると思っている。というかいろいろなものが、有益で、シェアされるようになったから、改めて会ったり、その場に訪れることに意味があると思う。

 

客観的に見れば「会えそうなくらいまでの関係性を構築すること」とか「そもそも現実で顔を合わせてしまうこと」自体が、徒労に終わる可能性もある。そのリスクを限りなくゼロにするという意味でも有益な情報がネット上でシェアされることに価値がある。

 

だからこそ、Twitterで友達のように仲良くなって、知り合うきっかけとは違う話で交流が深まったりすることに貴重さを感じているし、革靴のことなんて何も知らないのに「書いている話が面白そうだから」と文学フリマでが悩んだり、「全部ください」なんて言っていろんな方が買ってくれたことを見ていると余計に、そっちに肩入れしてしまう。

 

彼らにとっては話は面白いけど「どこが有益なのか」があまりわからないというのもあると思う。この辺の「見る人が見れば有益っぽいが、それはさておき面白いな」という感じをなんと言えば良いのだろう。

 

 

ここまで書いてみるとなんだか「革靴の話は書かない!」と怒っている人みたいになっている気がする。ただ、そういうわけではない。というものの、革靴の話で言えばもうファッションという分野がSNSと組み合わさってしまった以上、仕方がないことだと思う。

 

誰かが先に体験していることを事前にケアできるのであれば無駄な出費を避けられるような気がするし、実際そうであるパターンが多い。自分のセンス100%でぶっこんだ結果「ダサい」ということにはならないで済むというか。

 

そういう意味では、私がこのブログで書くプラモデルの話の多くは「こんな役に立たないものについて、役に立とうとせずに書いている」という点で自分では気に入っている。

 

私は役に立たないものが好きだ。部屋にはものが多いし、着ない服も「これは」というものは取っておいてある。その何ともいえないものに接しながら、何かと理由をつけてそれらがいかに素晴らしいものなのか、楽しかったのかを語るのが好きなんだと思う。

 

今日の物販