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毎週木曜日更新(2023年5月現在)。模型、日常。面白いことあれば他の日も

生き生きとした日常があるといい。露と枕 番外公演 連作短編集『雨のかんむり』

 

聖なるものという言い方が正しいのかはわからないですが、そんな感じの公演でした。

 

露と枕 番外公演 連作短編集『雨のかんむり』を見に行った。「生活と加害」というテーマで3篇のエピソードが上演されるものだった。テーマの面白さと見守る人間の大事さがとてもよくわかる、良い話だなと思った。

 

最初の「霾[つちぐもり]」は石の雨が降ってくるという災害があってから1年後の話。復興活動で生活をともにする2人なので見守る人間がいなくて、生活と加害というテーマを露骨に浴びた。被害者だと思ったら加害者……というの立場の逆転がわかりやすい。

 

2つ目の「霖[ながあめ]」は半年後の話。出てくる人数は増えて、会議を題材としている。話すべき話題と感情の発散がごちゃごちゃになっている中で、バランスを取ろうとする人がいる。彼女は見守る人間ではあるのだけど、途中でうまく行かなくなってしまう。その後の振る舞いが、若いときの自分と重なる部分もあったので笑いながら見てしまった。どこか忘れたけど、私だけ笑っていたところがあった。

 

3つ目の「霤[あまだれ]」は3日後の話。避難所での暮らしを書き留めている女性と姉妹が出てくる。この話は見守る人間がはっきりと存在している。受付を行っている妹だ。野球のキャッチャーみたいなもんで、他のポジションと向きが違うので視点も異なる。見守っている分、わかっているという感じで変に肩入れしたり熱中していないので「そのときはそのときだよ」と言っちゃう感じが最高。全体の様子を見守る人間は必要なのだ。

 

 

3つの話が現在から過去にさかのぼっていく構成がよくできていて、後で妙に納得してしまった。

 

「霾[つちぐもり]」は一年後ということもあって、災害に関する書籍が出回ったりしていて、物語としての消費が始まっている。物語になった出来事に感銘を受け、使命感から携わっていく人が現れるというのは、現実社会でも結構あると思う。後から加入してくる人という感じで、こういう人たちをなんと言えば良いのかがよくわからない。

 

「霖[ながあめ]」は、状況が落ち着いてきて、なんとか生きていける中でコミュニティが機能しだしたからこその活気があると思う。活気の元になっている全員が関係者で、再生に向けて転がりだして、勢いが出ている最中ってこんな感じだよな……とも。各々の「こうしたい」という気持ちが交錯しすぎるんだよな、こういうときって。言ってることと本音が違ったり、正しいと思ったら正しくなかったり、なんかよくわからんが思ってたのと違ったりとか。熱意はあるがゴールがない、まとまらない会議そのものでリアル。

 

「霤[あまだれ]」は今は生きているけど、割と真剣に「明日はどうなるかわからない」という状態。だからこそ、それぞれが立場を全うしようとするのだと思いながら見ていた。受付をする、探しに行く、取材をする。どれにしたって、思ってることとやっていることがストレートにつながっているのが気持ちいい。変な計算もなく、持ち場を自分で決めて生きている姿が真っ直ぐで、ぶつかり合いすらも綺麗だなと思って見ていた。

 

こんな風に関わる人達の純度のようなものが公演が進むにつれて高まっていくのが面白かった。

 

 

プラモなんか作ってると第二次世界大戦をモチーフにしたものが多いのでたまに「どうしたもんかなこれは」と思ったりもするが、陸上で繰り広げられたアレコレは人間も含めてプラモデルになることで生きている様子を感じることができる。70年以上前の出来事にドライに触れて、プラモデルとしての設計が面白いとか、「休憩中はトランプとかやってるんすね」とか、感想を述べる自分がいる。

 

「雨のかんむり」では災害から1年後の「霾」が現在に近いのだけど、100年後に、当時の災害がプラモデルになったりして、本を開くわけでもなく、風化を防ぐための活動というわけでもなく100年後からさらに何十年経ってもおもちゃ屋の棚に積んである。なんてことがあるかもしれない。それくらいにどの話に出てくる人たちは生き生きとしていた。

 

というか、大体の日常が今も昔もどんなときも生き生きしているのかもしれなくて、私はそれを公演を通じて感じたのだろう。

 

 

今日の物販

 

なし

 緑も樹脂もあまり変わらないのかもしれない。ADA LABで買ったパルダリウムを植え替えた

 

「なんで僕の草は黄緑色になってしまったんですか?」と聞いたら「水道水だけで得られる栄養には限りがある」といわれて、たしかに自然には枯れ葉や色々なものが栄養素になっていると思った。雨だって、水道水とは成分が違うだろう。

今、東急ストア銀座の5階にはADA LABというパルダリウム専門店が期間限定でオープンしている。4月ころに始まって、もともと8月までの予定だったものが好評で1月まで延長になったという状態だ。

 

 

 

結構前に買ったパルダリウムをほとんど枯らしてしまったので、夏に一度新しい水草を購入した。しかしこれが面白いくらいに伸びる。仕事が忙しいから……とほったらかせば、あっという間にガラスの蓋に到達して頭をぐいっと曲げて苦しそうにする。

それを切って植えると、また伸びる……というわけで無限に増え続ける状態。楽しいので、まさに茫々という感じで自然の凄さを感じながら最終的には蓋を外した状態でほったらかしていた。

少し暇になって、自分としてもなにかいつもと違うことがしたいなと思ったので新たに草を買い足すことにした。店員さんに伸びに伸びた写真を見せたら「うわっすご……これはこれで先が見てみたい……。というか写真うまいですね」なんて言われた。

 

 

そのまま、おすすめを教えてほしいとお願いして、いくつかの植物を見繕ってくれた。店員さんは、最初は「わかることなら教えられますが……」という感じだったが、おすすめの草を10種類くらい教えてくれて最高だった。

勧めてくれた中で購入したのは「アヌビアス・コインリーフ」という品種。これは地面から露出している茎の部分からも根っこが伸びている見た目の面白さを持つアヌビアスの中でも、コインのように丸い葉っぱを持つもので、一番饒舌に教えてくれた。

植わっているものをバラすにはどうしたらいいのかとかレイアウトはどうしたらいいのかとかそういう話も会計の前に聞いておいた。それに黄緑色の葉っぱの色を取り戻すべく、栄養剤の入ったスプレーも購入した。

 

 

帰宅して、植替えの作業をしていたのだけど、これはもうほとんどプラモデルだと思う。あるいはその逆でプラモデルがパルダリウムなのかもしれない。パルダリウム用のめちゃくちゃ長いピンセットでハサミで切って草を植える作業は特にそう。

買ってきたアヌビアス水苔に包まれているので、水の入った容器の中でほぐしながら徐々に外していく。それがものすごいゆっくりとニッパーでパーツを切り出しているような感じで面白い。徐々に根の形があらわになってきれいに取り出せると、とても嬉しい。種から育てるわけではなく、すでに生育したものを植えるあたりもプラモデルのパーツ的だ。

 

 

唯一違うところは、パルダリウムには説明書がないので全部自分で決断するところだろうか。「伸びに伸びていった草」ことスターレンジは、とても短く切り、低く植えることにしたし、アヌビアスが岩にのしかかるようなレイアウトを考えたりもした。

植替えの際に葉っぱに被ってしまった土を筆で取り除いているときには「筆はショップに売っていなかったから、これはモデラーならではっぽい!」などと一人でくすくす笑ったりした。パルダリウムやっている人はプラモデル作れるだろうし、プラモデル作っている人はパルダリウムできると思う。

 

ADA LABは1月までということだったけども、常設してほしいなと思う。店員さんもそう言っていた。何より、ああいうところに立派な店を構えて働くというのは気分がいいんですよね。本当に常設になってほしい。もう一個増やすか。パルダリウム。

 

www.adana.co.jp

 

ada-laboratory.com

 

今日の物販

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おしゃれなやつはいつもいる

 

タミヤの三号突撃砲って戦車のプラモデルを作っていたのだけど、チーム(部隊)ごとにつけられているマークがかっこいい。ドクロとか象とか。なんでこんなデザインなのかは調べればわかるような気もするが、それよりも何よりも「象、どうっすか?」とか「ドクロ、どうっすか?」って言い出す人間がいたっぽいのがすごい。だって、もっと事務的なマークでいいわけじゃないですか。A-1とか。

 

それに、最近nippperに投稿された、日本の配色事典をベースに鎌倉時代の武者のプラモデルを塗る記事もそう。同じ本を手に入れて、読んでみると確かにいろんな色の鎧をつけているんだなというのがわかる。これだって「青、どうですか?」とか「最近偉くなったそうで、では紫はいかがでしょうか?」なんて話があったのかと思う。

 

 

それを聞いて「え、同期はみんな赤だけど……うーん、青! イイね!」なんて話になったりするのだろうか。日本の配色事典の中では鎌倉時代の鎧には威圧するための色という考え方があったという。それに、自身のアイデンティティを生死をかけた場で表現するという意味合いもあったそうだ。確かに、ふと思い返せば関ヶ原の戦いで赤地に黒い鎌がクロスされたデザインの羽織を小早川秀秋が着ていたが、あれはまさにアイデンティティという感じがしてきた。

 

いずれにしたってさっきのドイツ軍の話と同じで「どうっすか?」「イイね!」があったわけで、そこにはなんかオシャレなやつがいるということだ。シリアスな場にさえいる。そう思うと、いつでもどこでも存在しているような気がしてきた。なので、何をやるにしたって、かっこよくやってみたり華やかに決めてみたりするのは悪くないと思う。「どうっすか?」と言う側というか。

 

 

話は少しそれるけど、私は今は普通の会社で働いてて「シャツが派手」「ネクタイが独特」なんて言われることがある。それでも「ねぇ、それどこの?」とは一回も聞かれたことがない。今の会社は他人の装いに興味を持つ風土が殆どない。こうなると完全に服装を楽しむことは自己満足の世界を通り越して孤独の世界になってくる。見せびらかすというよりは、好きでやっている。それに社内で一番ちゃんとスーツを着ているのは私だ。一見華やかで、他者との交流が活発なような服装の世界でも、こんな感じで孤独な状態というのは全然起こる。

 

なので、いつでもどこでも、華やかさと孤独というのは同時発生しているんだと思う。どっちにしたって、アイデンティティがあると「こいつはすげぇな」って思うわけで、うちの会社にも一人だけ月に1回くらい西の方からくる同世代の男性が「今日は靴、どこのっすか!?」って話しかけてくれる。「誰も服に興味持ってくれないから、気を使うの止めよう」なんてなったらこうはならない。

 

話題に上げたやつ

 

nippper.com

 

今日の物販

 

 

 

 

 

時代別 日本の配色事典

時代別 日本の配色事典

  • 作者:城 一夫
  • パイ インターナショナル
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