デザイナーという看板を下ろしてからもう1年以上経つが、私は相変わらず物を作っている。よくこの事態を
「物が作れるというのは一種の呪いの様なもので、どこへ行ってもそれが知られてしまえばたちまち物を作らされることになる」
などと言うのだが、これは今もそう思う。
だが一方である歴史上の人物を思い出すこともある。それは山上宗二という茶人だ。彼はザッと言うと「秀吉に逆らい続けて当時の茶の湯の発信地である京都を追われ、その後は関東にて北条氏に拾われ茶の湯の指導を行った」というような人物なのだが、メインストリームから外れた所で自らの知恵や好みを伝え広めたという点では先ほどの「呪い」が良い方へと作用しているように思える(一節では武士の本分を忘れてしまうほどに茶道に没頭した者が大勢いたという話もあるが)。
私は今の仕事に就く前の会社を「コイツの手下になることを自分で許せない」という何とも感情に任せた理由で辞めているが、この不景気によくもそんなことをしたものだと思うし「それでも許せないことだった」と職を辞したということを物を作る者として、仕事を行う者としてのプライドがあったのだなと自らを少し見直したりもした。
そして今の会社だ。今の会社では私は誰の手下でもないし、誰の師匠でもない。
さらに言えばデザイナーとしてそこには雇われていない(まぁ、前の勤め先もそうなのだが)。しかし、一切の物作りをのびのびとやらせてくれ「提案を通す」という意味での難易度も無いに等しい。そこで思い出すのは先の宗二の話だ。私は結局デザイナーとしてその業界で闘い続けることを放棄したのだが、ひとたびメインストリームから降りてみると、そこには私の力でもなんとなる色々があるではないか。
どこでも物を作れるというのは何かしらの作用を社内に及ぼす。
それが私に取って不快だと呪いのように感じ、そうでないと宗二になった様な気持ちになるのだろう。もちろん「そんな個人的な理由で仕事を辞めるのではない」という気持ちも分かるが、私は頑固なのできっとその意見を受け止めることは出来ないだろう。
先日、Facebook上でかつての恩師と繋がることができ、そのときに私は今の自分をこのように書いた。
それにしてもデザイナーはどこに行ってもデザイナーですね。
呪いというには随分暢気なものではないか。恩師はこう返してくれた。
デザイナーがデザイン会社の中だけにいては、本人にとっても社会にとっても益は少ない。本来社会に役立てるべき思想で生まれてきたんだからどんどん求められる処に入って行ってこそ、デザインもデザイナーも活き活きとする。
そうか。私が活き活きとしているのは、宗二の茶の湯が武士にその本分を忘れさせるほどに善く浸透したのはそういうことか。
私に師が入学したての授業で「デザインは社会参画である」とホワイトボードに書いていたことを思い出した。
宗二は最終的には耳と鼻を削がれ斬首にてこの世を去るが、私もそうならないよう頑固であることをいささか控えようと思う。