駄菓子屋で模型が売っていた時代があったと聞く。
残念ながら俺はそれを知らないが、もしそれが本当だったら、模型をただ切って貼って、デカールを貼るという遊びは割と普通だと思う。普通というか、普通以上にありふれていたのではないかと思う。
その完成の仕方は、箱の中に入っているものをフルに使ったものだから、当たり前なんじゃないかなーっていうのがその根拠で、ただそれが記録として残っていないというか、失われた遊び方みたいな感じになっている面はあると思う。当たり前のように合わせ目を消して当たり前のように色を塗る、汚す。まぁ、当たり前っすよね。シャツにネクタイ締めてスーツを着ることを「スーツを着る」と言ってしまっているような感じ。
ただまぁ模型はそういう意味だと、ファッションと同じでフォーマルもカジュアルもあるのかそもそもフォーマルもカジュアルもないのかネクタイを締めなくても「ノータイなんで」って言えるようなでっかい広場みたいなものだよなと思うんだけど、逆に言えば「スーツを着る」ところだけが広場として認められているような、なんて良い方は少し極論にすぎるか。
ま、とりあえずめちゃくちゃ楽しくていろんな遊び方ができるはずなのに一つの遊び方だけが異様に栄えているような感じ。
ただ、さっきの駄菓子屋の話みたいに「そうでない時代」とか「それだけじゃない遊びが観測された時代」があったらしいというのが私の今の実感。あとは、コンテスト志向なのか、カジュアル志向なのかとかまぁ分けようと思うと結構分けられると思う。私の話はそういう意味だとコンテスト志向の人には全然刺さらなくて当然(ただし、そこに明確な分けと分析はないので、私含む模型を楽しむ人は自分がどのような役割を振る舞えば良いのかがわからずにブレッブレになったりすると思う。これは模型界にまだそういうプレイデザインやカスタマージャーニー的なものが根付いてないからか、わかりにくいからだと思われる。反面、だからこそ難易度が高いキットを初心者が触ったり、楽なキットを上手な人がすごく上手に作るみたいな、柵の飛び越えは容易)。
そんな実感をベースに失われた遊びっぽい、箱の中のものだけで遊ぶ、組み立ててデカールを貼るというプロセスは割と好きな遊び方である。理由は2つ。一つは塗装が苦手だから。もう一つ、これは寄藤文平さんという素晴らしいイラストレーターが「絵と言葉の一研究」という著書に書いていた「水素と酸素が組み合わさると水になるように、絵と文も組み合わさると、絵と文ではない別の何かになる」という話がよく分かるから。組み立てたものはプラの塊。デカールを貼ると、なにか違うものになる。個人的にはこの状態が一番プラモデルっぽいなって思う。
色を塗ってデカールを貼ってと完璧に仕上げきると、今度は模型だなって思う。
失われた遊びっぽい切って貼って貼る遊びはいかにもプラモっぽくて、都合よく目と脳(と手)がいろんなことを補完して見た目にも満足できるというのが私の感想です。
これはかなり、主観的な見え方に頼る遊び方だけど、水素と酸素のような単純な結合が容易に観測できるので誰にでもおすすめができます。
↓模型はもれなく組み立ててブログにのります。
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