Re:11colors

毎週水曜日更新(2024年6月現在)。模型、日常。面白いことあれば他の日も

芝居の分からない俺と荒野に立つ男性。ココノイエノシュジンハビョウキデスを見た

 

「以上で終了です。アンケートなどはありませんが、SNSなどで感想を書いていただければ」屋代さんがそう言って、日本のラジオが演じる「ココノイエノシュジンハビョウキデス」は終わった。屋代さんは、演劇の概要に「作・演出 屋代秀樹」と書かれている男性だ。私は最終日の6月4日、13:00から行われた鶏組の公演を見に行った。この日、ちょうどこの時間だけがぽっかりと予定が空いていたからだ。

 

ココノイエノシュジンハビョウキデスは、古書店を営む主人と、目の悪い妻と、それ以外の人で繰り広げられる話だ。公演を通して、ずっと不穏な空気が流れる。時折「あははは」と笑い声が聞こえるけど、それは暗闇でホタルか何かが一瞬だけ光るような僅かなものだ。すぐに元に戻る。不穏さが積み重なって終盤に一気に溢れ出て、最後まで向かっていく。その間、なんとなく終りが近づいていること察しながら「なんてものを作る人だろう」と妙に醒めて全体を俯瞰するような気持ちと、そこからくるザワザワ感を身体で処理するかのように両手をこすり合わせたり、腕時計を握ったりしていた。

 

 

だいぶ違う話だが、仕事で自分一人で作ったものに対して、私は「これは僕が作りました」とはっきりと言う。ただ、誰かが関わるとついつい「みんなのお陰でできました」と言ってしまう。一緒に仕事をした人の為を思って、それと人間関係の都合上しておいたほうが良いと感じて、そう話すんだと思う。良いことだとは思う。ただ、「自分主導で作ったもの」という事実から逃げているのかもしれない。そんなことを屋代さんの締めのあいさつを聞いて思ったのだった。

 

締めの挨拶を言うだけの屋代さんのかっこよさは、舞台や劇団のフォーマットとしてそう見えているだけなのかもしれない。その辺は本当によくわからない。実情なんて見る側なので知らなくていいとも思う。それよりも、あれだけ見る人の心をざわつかせて、劇場内を荒野にして、そこに一人で立っている姿がかっこよく見えたのだ。

 

 

芝居のことは正直よくわからない。そういう素養は一ミリもないので多分一生わからない。映画もほとんど見ないし、何にしたって構造に目が行くので、構造に関する感想を話してしまう。そうすると「はぁ?」みたいな顔をされるので、情緒的な方面へは関心が向いていないのだと思う。ただ、経験した職業柄、人と人とのやりとりはじーっと見てしまう。

 

 

「この空気感で差し出されるベーコンが腐ってるってことは、それはベーコンじゃないだろ」って、心の中で突っ込んだときに、不穏な空気の演出がすごいなと気づいた。

 

例えば、客と本屋の主人が会話をするときに話題がループして縦にも横にも広がらない。相手の言い分を無視したり、自分の要望を相手が聞き入れるまで繰り返す。そんなことをやりながら「話す人と聞く人」という関係が「話す人と、話される人」みたいに具合が悪くなっていく様子が面白かった。間の作り方とか立居振舞は演者の方たちの力なんだと思う。途中、古書店の主人がアゴをクッと上げながら威圧的に話す様子とかは印象的だった。

 

 

それにしても、話題がループしたり、自分の要望を相手が聞き入れるまで繰り返すと行った振る舞いは、うまくいかない仕事の会議と全く同じでそれを見ながら私はくすくす笑っていた。

 

公演が終わって、劇場を出るときにカスカスにかすれた声で屋代さんに「とても……よかったです……」と思わず言ってしまった。荒野に立つ姿に大分やられたのか、普段みたいな声がぜんぜん出なかった。

 

階段を降りていくと、役者の方がお見送りに立っていた。声がかすれていたことを思い出して、何かを話すには都合が悪いなと思い深く一礼した。劇場の前には偶然居合わせた知り合い同士が手を合わせたりしながら、何か話をしていた。どれもこれも余韻が抜けきっていないのか、瞬間瞬間がやけに鮮明で「ああ、まだ現実には戻れていないな」と感じたので、これは一体いつ戻るのだろうと考えながら、のんびりと歩いていた。

 

現実に戻るのは、電車に乗って、席に座ってスマホを見るときだろうか。イヤホンをつけて音楽を聞き始めるときだろうか。片手のパーを、グーでパシパシと叩きながら歩いていたら目の前のおじさんが、結構な音でオナラをした。私の余韻は一気に消し飛んでしまった。それが面白くて「ああ、こんなことで」なんて、笑いをこらえながら歩いていたのだけど、駅のホームについて、ボケーっと電車を待っているときに「やっぱり終わったあとの屋代さんはかっこよかったな」なんて思ったのだった。

 

 

今日の物販

 

 

 

あるんかい。