どの模型もそうだが、特に飛行機模型は見たことのないものを作っている気がする。雰囲気で飛行機を組み立てていると言っても過言ではない。
ここにあるのは、もしかすると恐竜の化石を見るような感覚であったり、あるいは水族館で見る魚たちが実際に泳いでいる海ではなく水槽で暮らしている様に近いと思う。出来る限り近いものを見て、本物を想像するという行為だ。
さらに注目したいのは私たちは大概の模型は「その模型の完成品」をこの目で見ないまま作る。パッケージアートや説明書に完成品の写真が使われていることはあるが、一定の角度からしか見られず、知りたいところを知れなかったりするので、これはこれで完成品をしっかりと見られているかというと難しい。
そんなわけで、実際のところ私たちは雰囲気で模型を作って説明書の最後まで走り切り、パーツがさっぱりなくなったところで完成とする場合がほとんどだ(もちろん、完成後に全体のパーツの水平垂直や継ぎ目をチェックすることはあると思うが)。
こうして出来上がるものはやはり冒頭に書いたような、化石や魚のような本物に限りなく近しい何か。より正確に言えば近しい何かに近しい何か。ということになり又聞きの存在とも言える。
それに色を変えるだとかディテールを追加するとかという解釈が加わり、答えが出て完成品として部屋にあるということになる。
こうして見ると、私たちは模型をその完成形を確認することなく作り、もちろん確認するものがないまま終わりに向かう。ただ、手元には完成品はある。これはモデラーとしては非常に無意識的に行われる作業だ。この組み立て方であってるのか、この部品の角度が合っているのか。しかもそれは実機と合っているのか、模型の完成品と合っているのか?もし両者が違ったらどっちを取るのかなんてことを考えると作る手も止まってしまいそうだ(大概は実機を取りそうだが)。
もし「ボディと翼の間に隙間ができるのは模型のせいではなく、自分のせいかもしれない」などと思い出すとプラ板を差し込む手すらも、それが何を意味するのかと悩んでしまうのではなかろうか。私も幾度となく苦しんだ「根本的に組み立て技術に問題や間違いがある可能性」と向き合うのは少し辛いものがあるし、「金型の歪み」という診断結果に処方される「追加工作」はいつだって効果的だ。
それぞれの瞬間の裏にあるのは美意識であったり、模型というプロダクトに対する接し方だと思う。
私たちは(実機、模型の完成品の2点という観点から)見たことのないものを、見たことがあるかのように作る。 それがどういうわけか組み上がり完成する。
ここにあるのは、おそらく完成品を買わずにわざわざ人が作ることの面白さだと思う。
その瞬間と解釈の連なりの記録は、まだ少ない。
この記事を書くにあたったきっかけ
↓模型はもれなく組み立ててブログにのります。
今日の物販