Re:11colors

毎週木曜日更新(2023年5月現在)。模型、日常。面白いことあれば他の日も

役に立たないものでい続けたい

 

私が革靴の記事をめっきり書かなくなったり非公開にしたことには理由がある。ぶっきらぼうにいってしまえば「役に立つもの」として認識されるようになったからだ。そして、その様子がSNS観測できてしまえる状態なのが今、というわけだ。

 

私は「自分のブログにおいては有益な情報を書きたい」と思うことはあまりない。どちらかというと「自分の体験を記しておきたい」とか「気づいたことをまとめておきたい」とかそういう感じのもので、たまに通りかかった人が見てくれれば良いなみたいな感じだと思う。もしかするとTwitterとかの関わり方もある意味で往年のブログ的な接し方に近いのかもしれない。ほんのりコミュニティが形成されている感じというか。

 

なのでこのブログに関しては「役に立つぞ!」という感じで評価されると「もっと役に立つ情報を握っているぞ!」という風になることは少ない。SNS上で己の影響力を確認することはあるし、もっといいねやブックマークがつけばと思うことはあるけど。

 

 

革靴の話に関していえばもっと話したいことや書きたいことはある。ただ、それは「会って話そうぜ」と思ったり、文学フリマなどの同人誌即売会で伝えるようにしている。そういうところでしか言えないことは少なからずある。そこでしか通じ合えない何かがあると思っている。というかいろいろなものが、有益で、シェアされるようになったから、改めて会ったり、その場に訪れることに意味があると思う。

 

客観的に見れば「会えそうなくらいまでの関係性を構築すること」とか「そもそも現実で顔を合わせてしまうこと」自体が、徒労に終わる可能性もある。そのリスクを限りなくゼロにするという意味でも有益な情報がネット上でシェアされることに価値がある。

 

だからこそ、Twitterで友達のように仲良くなって、知り合うきっかけとは違う話で交流が深まったりすることに貴重さを感じているし、革靴のことなんて何も知らないのに「書いている話が面白そうだから」と文学フリマでが悩んだり、「全部ください」なんて言っていろんな方が買ってくれたことを見ていると余計に、そっちに肩入れしてしまう。

 

彼らにとっては話は面白いけど「どこが有益なのか」があまりわからないというのもあると思う。この辺の「見る人が見れば有益っぽいが、それはさておき面白いな」という感じをなんと言えば良いのだろう。

 

 

ここまで書いてみるとなんだか「革靴の話は書かない!」と怒っている人みたいになっている気がする。ただ、そういうわけではない。というものの、革靴の話で言えばもうファッションという分野がSNSと組み合わさってしまった以上、仕方がないことだと思う。

 

誰かが先に体験していることを事前にケアできるのであれば無駄な出費を避けられるような気がするし、実際そうであるパターンが多い。自分のセンス100%でぶっこんだ結果「ダサい」ということにはならないで済むというか。

 

そういう意味では、私がこのブログで書くプラモデルの話の多くは「こんな役に立たないものについて、役に立とうとせずに書いている」という点で自分では気に入っている。

 

私は役に立たないものが好きだ。部屋にはものが多いし、着ない服も「これは」というものは取っておいてある。その何ともいえないものに接しながら、何かと理由をつけてそれらがいかに素晴らしいものなのか、楽しかったのかを語るのが好きなんだと思う。

 

今日の物販

 

 

 

 

いろんな人にプラモを読み解かれたい-現代将棋を読み解く7つの理論を読んで-

 

「現代将棋を読み解く7つの理論」という将棋の本を読んでいる。なお、将棋は弱い。

 

将棋界を題材としたものは羽生善治の著書や村山聖について書かれた漫画などを読んだりしている。勝負の世界に身を置く人たちの話に触れられるという意味で、結構好きだ。

 

では、肝心の将棋を打つという行為に関していうと、私は冒頭に書いた通りで弱い。理由は明らかで駒の動かし方や、駒組みに関しては大体わかるものの、中盤の動きが全くわからないのだ。それゆえ負けてしまう。なので、将棋にハマることはなくぼんやりと彼らの世界を遠巻きに眺めることになってしまっている。

 

 

「現代将棋を読み解く7つの理論」は現代将棋のトレンドをわかりやすく解説している。

 

これは将棋の強い弱いと理解度が関係しているというよりは、スポーツやカードゲームなどの戦略・戦術に対する理解があると将棋がよくわからなくても、今の将棋界で何が起きているかがわかるという感じ。

 

そのトレンドが勝敗を分けているということになるのだけど、では「個々の場面で何が起きているのか」というのは、これはやっぱり将棋がわからないとなかなか理解ができない。それは終局後の将棋盤を見て「どちらが勝ったのかがわからない」だとか「状況を再現するための棋譜通りに打ってみたが、ターニングポイントがわからない」みたいな、素人目にはわからないことがたくさんある。

 

 

終局後の将棋盤を見ても「何がどうなって、この結果になったのか」がわからない。これはプラモデルの完成品も同様ではないか。

 

そして、棋譜に近しいものとして説明書があるのかもしれない。説明書も、わからないといえばわからないだろう。プラモデルには「説明書を見てパーツを探して、該当するものをニッパーで切る」という行為がある。これだって、初めてプラモデルを作る人にとっては、将棋の初手の7六歩に等しいほどの「聞けば納得するがわからないもの」な可能性がある。

 

勝つための戦法があり、上手くなるためのハウトゥがある。どちらも「なぜそれをやるのか」がわかってくると使いどころもわかるし、効果もよく出る。それにトレンドもある。プラモデルは勝ち負けはつかないが、何かを行なった結果が形として残っている点が似ている。野球やサッカーのスコアと違う、決着がついた形が目に見えるというわけだ。

 

 

どちらも「実際にそれに集中している人間はめちゃくちゃ楽しい」という特徴があって、その界隈だからわかる文脈というのがある。

 

「何がどうなったのかわからんがすごい!」というのは確かにすごいのだけど、そこに至るまでの面白さを読んだり、見たりして実際に取り組むのは結構楽しい。そういう意味では「現代将棋を読み解く7つの理論」は個々の戦術を深く読み解くというよりは、対局を通してどういう戦術、振る舞いを取ることが重要視されているのかを書いているのが好印象だった。

 

プラモデルもそういう、トレンドみたいなのがわかると結構楽しいと思う。とはいうものの、塗り方やジオラマ作成のトレンドとして「今」を知ることができても、過去と現在みたいな形で連なるように見れなかったりするのは少し寂しい。そして塗装一つに関しても「今」って一体なんなのだろうと思ったりもする。

 

今週の物販

Kindle unlimited対象です)

 

"そのアメリカ"を成り立たせるもの/AMT 1/25 1963 Chevy II Nova Station Wagon

 

私がCHEVY NOVA WAGONのプラモデルを買ったのはアメリカのミニカー「Hot Wheels」でその見た目に惚れたからだ。

子供のころは、車という文化に触れることはほぼなく、セダンやクーペをメーカー名だと思っていたし、VOLVOBMWフォルクスワーゲンはいまだに混同する。30歳を超えて最初に特定の車を認識したのは、以前勤めていた会社のそばにあるスーパーに毎朝停車していた生花を納品するスズキのジムニーだった。

 

もし、子供のころにHot WheelsのCHEVY NOVA WAGONを手に入れたら、きっと、今のように形に惚れこんだに違いない。そして父親に言うだろう「もっと大きいサイズのものが欲しい」。

 

 

それを聞いた父親は、私がめったにものをねだることをしないので真剣に考えるはずだ。そして、一計を案じる。「プラモデルを買い与えてみたらどうだろうか」と。こうして、パラレルワールドの私の手元にはプラモデルがやってくる。

 

現実の私はというと、4歳の頃に肺炎で入院し、そのとき同室だった年上の男の子がプラモデルを作っているのを遠くからながめていたそうだ。それを見て父親が私にプラモデルを買い与えることで「今の世界線の私」はプラモデルとの出会いを果たす。

 

 

どちらにしても出会ってしまい、手元に存在することになっている1/25のCHEVY NOVA WAGON ステーションワゴン1963 は、箱の厚さや深さに舶来の雰囲気を感じる。中身を開けてみれば、これまた厚みだとか密度を感じるゴロっとしたプラスチックだ。それでいて、繊細なディテールが同居する。


「果たしてこれは、大雑把そうな印象を受ける質感と繊細なディテールという対立項が両立していると考えていいのだろうか」

 

そんなことを考えていたが、実際のところはビンテージクロージングの世界でも明らかなように、アメリカで作られるものは意外にも「大雑把さと繊細さの両立」を平然とやってのけるのではという気がしてきた。

 

 

ワークウェアのタフさの象徴である、リベット打ちや、トリプルステッチなども丁寧な仕事がなければ強度そのものを確保できない。ホワイツブーツに見られる”ホワイツ式ステッチダウン”と呼ばれる、ブーツのウェルトを二周走る特徴的な仕上がりも同様だ。

 

どちらの分野も物理的な厚みがあり、重い素材が使われる。そういうわかりやすい強さがある。なんならそれらを縫い合わせる糸ですら太いのではないかとすら思う。こうして考えてみると、タフさとは「大雑把に強そうな素材」と「繊細な仕事」が掛け合わされて成果物に現れている。つまり「素材と仕事」と分けた場合に「大雑把さと繊細さ」は対立しない。

 

そういった意味ではこの、1/25のCHEVY NOVA WAGON ステーションワゴン1963というプラモデルが放つ「なんか分厚そうなプラスチック」と「なんか繊細なディテール」は、アメリカのものづくりを端的に表しているような気がする。時間のあるときに、作ろうかなと思います。