Re:11colors

毎週木曜日更新(2023年5月現在)。模型、日常。面白いことあれば他の日も

演劇わからないけど蛇ヲ産ムはすごかったし、俺は屋代氏の作品が好きなのだろう

 

推しである沈ゆうこさんが始終ステージにいた。この満足感は私にとっては相当なものだが、それとは違い、それぞれのストーリーを重ね合わせるように、自由に話をつなげて行く役割を果たしているのがとてもよかった。最初の観劇の注意からシームレスに本編に入って行く感じは話の練り方の巧みさだと思った。そういう入り(あと、終わり)も含めて漫画でいうコマ割りやストーリーを構成する立場としての語り手を沈ゆうこさんが演じていた。

 

そう、3月17日に沈ゆうこさんが所属する、日本のラジオの演劇「蛇ヲ産ム」を新宿眼科画廊に見に行ったのだ。

 

 

「蛇ヲ産ム」は町の因習に基づく色々な出来事を断片的な現象として描き、それらが徐々に重なって行くことで「あれ、これってもしかして……?」という気づきを観る側に与えるようなストーリーの演劇だ。

 

気づけば気づくほど、こちらとしては気持ちが追い詰められる。その不快感で胸がいっぱいになる頃に、昔流行った唄を大声で歌う女性二人のシーンは「待ってくれ……!」と言いたくなるほどだった。「不快な気持ちなる」「怖くなる」という、脚本の仕掛けにまんまと乗せられたことにふと気づくと、酔っ払ったような気持ちよさも同時に感じた。

 

私の少ない観劇歴で多くを占める劇団が日本のラジオだ。屋代秀樹氏が作る脚本が好きなんだと思う。こっちを見るでもなく、現象を見させられているような感じは、どこか他人事を眺めているような気持ちになる。ただ、こちらに訴えかけてこない距離感にリアルさを感じる。SNSでは「これ、面白いよ!」と奇跡の瞬間や面白いものがこちらに訴えかけてきてうっとおしいけど、日常では当事者ではない出来事の方がほとんどだ。演劇は演じる側と見る側は分けられていると思うけど、その一線を、こうやってはっきりと見せてくることに、ぞわぞわする(だからこそ、語り手のいろいろな領域をまたいで行く感じが際立つのだけど)。

 

 

特に面白いなと思ったのは、椅子の配置がトリガーになって場面転換が行われるところだ。椅子が装置になるのかという驚きと、ミニマムな仕掛けで話がどんどん展開される様子は、きれいだと思ったし研ぎ澄まされていると思った。確かに日常では椅子が多い。あと、見終わった後に、椅子の位置を整頓してから屋代さんが開演前の挨拶をしていたことを思い出して、偶然だと思うが本編とのシンクロを感じてふふっと笑ってしまった。

 

そういえば、入場時点で「奥側にも席があります」みたいな表示があって、好奇心につられる形で奥へ行ったのだ。舞台を挟むような形で客席が配置されていて、始まってすぐに「こういうことか!」と面食らった。作る側がどのように見てもらうかをコントロールできるのは小劇場演劇の魅力だと思う。「自分が続編を作る!」と息巻いたトム・クルーズだって、TOHOシネマの予告編を流すことを中止することはできないのだから。

 

全員が魅力的だったのは確かだけども、金髪の神藤さやか氏が私の目にはとても個性的に映った。なんというか、危ない感じだけど、まとも、みたいな。この土地で生きる覚悟がある感じ。そのせいか妙に見ちゃうなこの人……と思っていた。

 

 

演劇周りの物事ではフライヤーやパンフレットのメインビジュアルが田中一光というか日宣美っぽい感じがあってとても良かった。日本のクラシカルなデザインスタイルというか。Kindle 読み放題にいくつか上がっている屋代秀樹氏の脚本のメインビジュアルをみる限り、同一の人が作っているのだろうか。フライヤーの作品集が欲しい。

 

今日の物販

 

 

 

 

理髪店を変えて4回目。その人の切り方をようやく味わえた日。

 

年始に「髪を短くして欲しい」と話したら、思いっきりタッチを入れるようなカットをされて「ああ、これがこの人の切り方なんだな」と理解した。自身のスタイルを存分に活かして切ってくれた髪型は私の行動範囲のいたるところで評判が良かった。私としても今までと違う仕上がりに「切る人によってここまで違うのか」と驚いたし、髪を切ることに面白さすら感じた。

 

というのも、昨年の秋頃から髪を切る店を変えたのだ。15年くらいカットをしてくれた人がやめてしまったからだ。その人の連絡先を店から聞いて「今はどこにいるのか、そっちへ行く」という話をしたら「来てくれるのは嬉しいけど、近場でいいところを教える」と教えてもらったのが今のお店だ。私が探すよりも確かだし、やめた自分の店を「俺がいなくてもいいお店だよ」と言わない様子に、信頼を覚えたのだった。

 

以前のお店の担当の人はカチッと形を作るタイプで、ビシッと音がしそうなくらいに綺麗な仕上がりだった。それには歳をとればとるほど効果を実感していた。反面、今の人はニュアンスを少しずつ決めながら全体の雰囲気を作っていくタイプだ。最初は、前の人のイメージから離れたくなかったので保守的なオーダーをしていたし、向こうも長年通っていた同業者からの紹介というのもあって、おっかなびっくりという感じでそこまでハサミでタッチを入れていくことはなかった。

 

少し考えれば、教わる人も好みも相手にするお客さんも違うので習得する技術の方向性は違って当然だ。今日は、髪を切って帰って来た。「この前よりも短くして欲しい」とはなして、理容師の切り方の違いの話をしながら、ザクザクとタッチを入れて行く様子を見ていた。最後にとにかく評判が良かったことと、「切っている姿を見るのが今は面白い」と伝えて帰って来た。

 

今日の物販

 

 

 

 

 

自転車、あるいはスケートボードか。力が伝わって動くもの。自動巻腕時計。

 

機械式の腕時計は、放っておくと止まってしまうことに意味がある。

 

会社で同じタイミングで入社した歳上の方が半年ほど前に私に時計をくれた。その時計はTudorのRangerというモデルで、昔のもの。黒文字盤に視認性の高いエクスプローラーダイヤル。針はイカ針と呼ばれる独特な形状をしていて、いかにもアクティブな見た目の自動巻きの腕時計だ。フィールドウォッチが何であるかはさっぱりわからなくなった今でもなぜかその響きがふさわしいと感じる。

 

自動巻きの腕時計は自分の腕の動きがそのまま針を動かす力になる。そんな風に自らの力が動力へ直結するものの中で、日常生活で出くわすものは自転車やスケートボードくらいなものだ。自動巻きは人間の活動と密接に関わっている非常に身体的な装置だと思う。

 

そう思うとダイレクトに自身の活動がエネルギーに変換されている様子が見られるのは短針、長身、秒針で構成されたシンプルな3針の腕時計だ。文字盤を規則的に回り続ける秒針は持ち主の活動をエネルギーに変えて動いていることを存分に私たちに教えてくれる。眠かったり、寝坊したりした日にパッと手にとって時間を合わせる時計がなぜ「3針、日付なし」の腕時計なのかをずっと考えていた。それに「いかにもアクティブ」と最初に書いたが、実際には今日の今日まで本当の意味はわかっていなかった。

 

針の動きが確認しやすいデザインは、私の活動が時計を動かしていることがよくわかるという重要なポイントだ。眠かろうが怠かろうが、パワーを生み出していると思うと気持ちも自ずと上がってくる。だから「アクティブな見た目」と思えるのだろう。だるい日の腕時計は3針、日付なし、自動巻きで決まりだ。