Re:11colors

毎週木曜日更新(2023年5月現在)。模型、日常。面白いことあれば他の日も

曖昧な「本物」に迫る

昨日、なんとなくできる限りフィギュアに近づいて撮影してみたらどうだろうかと思い、撮影してみた。近づけて撮影してみると分かるのはカメラ自体が影になるので油断すると真っ暗な写真が撮れてしまうということだった。ただ、これはこれでドラマチックなので良いなと思い、気に入っている。

 

撮った画像を見たときに感じたのは「リアルだな」というようなことだとか「実在する人間のようだ」みたいな、模型に乗せられる願いや思いとは少し違っていて「柔らかだな」という印象だった。光と影の入り方もそんな感じ。

ぼんやりと柔らかく、キレイだった。

 

こうして見ていると、俺はプラスチックについて何も知らないような気がしてくる。ニッパーで切れる程度の柔らかさ。ハサミだと、ちょっと力がいる。果たしてこの素材が硬いのか、柔らかいのかを知らないし、質の上下についてもわからない。

 

例えば写真に撮ったタミヤのプラモデルと海外のそれとはプラの質感は明らかに違うのだけど、どっちが上等かはわからない。それに、どっちがプラモデルとして適しているかもわからない。革靴や洋服はなんとなく分かるし、身近な例で言えば貴金属なんかは、純度を持ってその価値を測られるわけだが、果たしてプラモデルにおけるプラスチックの良し悪しとは、何なのだろう。そして、日本人の私が「タミヤのほうが良い」と思っても、例えばフランス人は「エレールのほうが良い」とか言ったりするのだろうか。木材などは種類によって活躍の場面が適切に定義されているが。

 

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そういえば以前、通販サイトのレビューで「成型色はグレーのほうがモールドがよく分かるので、このキットは少し残念です」みたいな評価を見たりもした。グレーのものも写真に撮ってみたりはしたのだけど、たしかにその通りで陰影がパキッとする。ただその一方でこの薄黄土色の成型色が生み出す質感のなんと面白いことであろうか。

どうせ、サーフェイサーなどでグレーに塗られてしまうのだから、その前はせめて何か、他の色であってほしいと、この兵士の写真を撮っていて思ったりもした。

 

近くによって撮って分かることは、その行為そのものが「本物に迫る」ということであるという面白さだ。無塗装のプラモデルはモチーフになったものからは遠いかもしれないが、プラモデルの名の通りの本物であった。よくわからない、よくできたものがそばにある感じは好きだ。手元においておきたいという理由で私の家には様々なものがある。

 

硬いんだか柔らかいんだか、上等なのかそうでもないのかわからない、プラモデル用のプラスチックを写真に撮って俺は今日も素材と戯れたな、と手づかみの感覚を覚えたのであった。

 

今週の物販

 

 

 

 

 

 

プラモの多様性が観測され、さらに多様になっていく中で

河合克敏」という漫画家がいて私はその人の作品が大好きだ。柔道漫画帯をギュッとね!競艇を題材にしたモンキーターン、書道の世界を全体的に触れられる、とめはねっ!と主要な作品を読んだわけだけど、特にとめはねっ!以外の2作は中学生の頃に読んだので自分の人生に大きな影響を与えた作品だと思う。大人になってから、とめはねっ!を読んだのだがやはり、衝撃を受けた。

 

帯ギュでは「楽しい柔道」とは何かを思い知らされた。この作品のハイライトは物語後半で「努力すれば勝たせてもらえるというのは甘えかもしれない」「楽しく努力しなければ続かない」と本当の楽しさを追求するところだろう。主人公含む浜高柔道部はインターハイ優勝を目指し「技を習得する楽しさ」「筋肉をつける楽しさ」などを感じながら強くなっていき、その地力を持ってして戦い抜く様は眩しくもかっこいい。

特に主人公の粉川巧の「筋トレは大変だが俺の背負い投げのキレが増すのだから楽しい」と話す姿には、苦労が努力が成果を結ぶというような様子は一切なく、気持ちが良い。

 

モンキーターン競艇という勝負の世界の中で主人公の波多野憲治は、まさに勝ち負けを競うわけだがその中で「競艇選手としての在り方」を問い続ける。「相手の選手に怪我をさせるようなことをしてはいけない」ということがかなり序盤に語られるわけだが、他人と競い合う世界だからかとてもシリアスな話だったりもして、これはこれでいたく心に刻まれた。

前にも書いたけどライバルの洞口雄大が準ヒロインの青島優子とデートする話が好き。ここから全てを手にするかと思いきや「他人と競い合う世界だからこそ非情になりすぎた」と言わんばかりに全てを失ってしまう洞口の姿が美しい。俺は洞口が好きだ。

 

とめはねっ!は書道の世界を古典から現在までを部活動を通して学ぶことができるのが面白い。漢字、かな、漢字仮名交じり、前衛書など多様なジャンルを水族館を巡るような感じで楽しめる。

この漫画もいくつかハイライトがあるわけだが、ライバルの大槻藍子が「手本通りに完璧に書けたとしたらそれは千年以上昔の作者と全く同じ動きをしたと言えるのではないか?」と話すシーンや、実在する書家の手島右卿、井上有一らが挑戦した前衛的な表現の書たちを「文字を書くという決まりすら書にとって不自由な縛りなのでは」と感じた上での作品だと語る場面は、書道という創作の中に熱く、華やかな蠢きを感じることができる。私は書に向かう姿勢というか書くことにロマンを持って取り組む大槻藍子が好きだ。すぐカッとなるほどに前衛書に熱い島も好きだ。

 

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なぜこんな話をしているのかというと、誰かと触れ合ってしまう趣味としてのプラモデルに河合克敏的なマインドは強く持っていたいと改めて思うからだ。「苦労の代償としての成功」よりは「楽しく続く努力の地続きの成功」を追求したいし、「怪我をさせるようなことをするのは良くない」と感じたりもする。

 

ただその2つのあるべき姿をグラグラと揺らすのは、華やかな蠢きと触れた「書の多様性や取り組み方」だったりもするのだ。現に井上有一らのいた墨人会は日展不参加を明文化するなど「圧力からの解放」ということでいろいろやっていたようで、その活動自体は「楽しみと成功」をよりストイックに追求すると「怪我をさせてはいけない」ということが保てない場合があるような危うさを感じる。「表現の追求」の眩しさが、炎天下のみみずの命を奪うような状態とでも言おうか。

 

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今は、と今更触れるような話でもない気がするがSNSの発達の影響をプラモデルや模型が受ける時代になってるっぽい。制作レポ的ではないnoteやblogを運営している方も増えてきていて、10年ほど前のファッション界隈と同じような流れをなんとなく見かけることが多くて、だから「どういうことが起きてるのか」は大まかに掴めている。「自分はこう思う」を作品や文章で見せるタームになってきた、かな?

 

雑誌でしか知り得なかったコンテストモデラー的な賞賛すべき美しい作品たちと違う方向でのカジュアルモデラーの楽しみ方が写真と文章で語られ始めていると思うし、自分もその一翼を担ってると思いたいのだけど、この辺の人がにわかに観測されているのが「今」という感じで、まさに多様化の時代。

あるいはリニューアル直後のPOPEYEが「シティボーイ」と今まで観測されていたが名前のなかった人たちに名付けたような感じで、もともとあったものが可視化されて来たという気もする。

 

自分の楽しみ方を、俺はこういうトライブ(部族)であると舞を踊って見せるような日々がもっと激しくなってくるとシーン全体がぐしゃぐしゃになって来て超新星爆発といった感じになるかと思いますので楽しくいきましょう。

 

 

 

今週の物販

 

 

 

簡単で美味いものが食いたい

好きなパンで「チョコづくし」というNEWDAYSで売っているパンがある。よく食べるし、新しい味のものも食べる。チョコづくしをもぐもぐと食べていると「好きだよね、それ」と言われたことがあったので「これは簡単に甘いから美味しい」という話をした。

 

私は食に興味がないので上手いものが食いたいと思うことは殆どない。ただ、何でも良いわけではなく食べたいものが食べたいので、そこで出てくるのが「簡単に甘い」みたいなフレーズだ。「簡単にしょっぱい」だとか「簡単に辛い」とか。カテゴリ分けができないものは「簡単に美味い」ということになる。好きなお店や食べ物はそういう簡単なものを出してくれるお店ばかりだ。

 

プラモデルに関しても割とそういう目で見ることがある。「簡単で美味いものが食べたい」と。切って貼るという単純な行為はとにかく簡単で美味いのだ。ニッパー、接着剤、カッターナイフ、ピンセットこれだけあれば無塗装で仕上げるときはプラモデルを食べることができる。しかも私の場合は組立そのものを文章にすることに意味があると思っているので、組立だけをそのまま食せる。食べると、設計をした人の頭の良さとか、それぞれのキットの組ませ方の特徴がよく分かる。よく分かるというのは、無塗装で作ってもそれぞれ差があるということが分かるということ。同じマグロでもどこで取れたマグロかで味が違うのがわかるみたいな、そういう話だ。

 

妙な分割のタミヤの3Dスキャンのフィギュアの襟だけ別パーツというアイデアはやっぱり襟がパリッとするし、特に最新のものだと首の角度だとか腰の捻り方にドラマがあるっぽいことを意識した造形と、タミヤ独特の「位置をしっかり決めさせる」設計に感心する。よくできているのは造形そのものだけではなく、それを誰にでも成立させうる分割のセンスなのだとよく分かる。

 

逆に、そこまでさせても元々の顔の造形だとか首の付き方の角度がいまいちだったり、背中が丸っこくなってたりするとなんだか雰囲気が出なくなったりするので、タミヤの兵士の原型を作る人は大変だと思う。

 

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組立体験は極上なのに、肝心のフィギュアのフォルムがいまいちなんてことにならないようにしないといけない。「タミヤスタイル」として位置決めがバシッと決まることは確立されている気がするが、兵士一人ひとりの雰囲気に関してはそういったものは余り感じられないと言うか、そもそも兵器や乗り物のように確固たる形があるものではないのが人なので、統一感がありすぎても怖い。その辺にとても難しいところがあると思う。

 

最近はとにかくフィギュアを作ることが多い。顔を見ていると良い顔してるなとか、そうでもないなとかそういう感想が出る。全体を見てもちょっと猫背っぽいなとか、背が低いとか大柄だと思ったりもする。まるで、現実で人にあったときのような感想を抱くのだからこれはいかに主観的な判断の世界かというのがよく分かる。

 

そういえば私は、靴を作ってもらったりする機会があったので職人のピークみたいなのを考えることがあった。この人が一番靴作りが上手い頃はいつだろう。自分と相性が良い頃はいつだろうと。今お願いしているところはもうそろそろ自分と相性が良い頃を過ぎそうだが、プラモデルはそういうことはあるのかな?と思うと、1/35の兵士たちはどうにもありそうな気がする。キレキレの3D原型がキレ過ぎている頃や、絶妙なかっこよさがある頃。背の高い低いを作ってみたり、顔の造形を丸くしたり細長くしたりするとか、顎の出方をどうするだとか3D原型と時代を区切って見ても、そのときそのときであれこれ試している様子を感じる。というか、現実世界のリアルを考えると見た目のいい男ばかりではリアルではなかったりするのか。

 

フィギュアは無塗装だと簡単で美味い食べ物だ。とにかく美味いし、すぐ作れる。そして、日常で見る人間がプラモデルになったものなのである程度作っていくとすぐに目が利くようになる。最高に簡単に美味いフィギュアを私はいつも、探している。

 

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