「河合克敏」という漫画家がいて私はその人の作品が大好きだ。柔道漫画の帯をギュッとね!、競艇を題材にしたモンキーターン、書道の世界を全体的に触れられる、とめはねっ!と主要な作品を読んだわけだけど、特にとめはねっ!以外の2作は中学生の頃に読んだので自分の人生に大きな影響を与えた作品だと思う。大人になってから、とめはねっ!を読んだのだがやはり、衝撃を受けた。
帯ギュでは「楽しい柔道」とは何かを思い知らされた。この作品のハイライトは物語後半で「努力すれば勝たせてもらえるというのは甘えかもしれない」「楽しく努力しなければ続かない」と本当の楽しさを追求するところだろう。主人公含む浜高柔道部はインターハイ優勝を目指し「技を習得する楽しさ」「筋肉をつける楽しさ」などを感じながら強くなっていき、その地力を持ってして戦い抜く様は眩しくもかっこいい。
特に主人公の粉川巧の「筋トレは大変だが俺の背負い投げのキレが増すのだから楽しい」と話す姿には、苦労が努力が成果を結ぶというような様子は一切なく、気持ちが良い。
モンキーターンは競艇という勝負の世界の中で主人公の波多野憲治は、まさに勝ち負けを競うわけだがその中で「競艇選手としての在り方」を問い続ける。「相手の選手に怪我をさせるようなことをしてはいけない」ということがかなり序盤に語られるわけだが、他人と競い合う世界だからかとてもシリアスな話だったりもして、これはこれでいたく心に刻まれた。
前にも書いたけどライバルの洞口雄大が準ヒロインの青島優子とデートする話が好き。ここから全てを手にするかと思いきや「他人と競い合う世界だからこそ非情になりすぎた」と言わんばかりに全てを失ってしまう洞口の姿が美しい。俺は洞口が好きだ。
とめはねっ!は書道の世界を古典から現在までを部活動を通して学ぶことができるのが面白い。漢字、かな、漢字仮名交じり、前衛書など多様なジャンルを水族館を巡るような感じで楽しめる。
この漫画もいくつかハイライトがあるわけだが、ライバルの大槻藍子が「手本通りに完璧に書けたとしたらそれは千年以上昔の作者と全く同じ動きをしたと言えるのではないか?」と話すシーンや、実在する書家の手島右卿、井上有一らが挑戦した前衛的な表現の書たちを「文字を書くという決まりすら書にとって不自由な縛りなのでは」と感じた上での作品だと語る場面は、書道という創作の中に熱く、華やかな蠢きを感じることができる。私は書に向かう姿勢というか書くことにロマンを持って取り組む大槻藍子が好きだ。すぐカッとなるほどに前衛書に熱い島も好きだ。
なぜこんな話をしているのかというと、誰かと触れ合ってしまう趣味としてのプラモデルに河合克敏的なマインドは強く持っていたいと改めて思うからだ。「苦労の代償としての成功」よりは「楽しく続く努力の地続きの成功」を追求したいし、「怪我をさせるようなことをするのは良くない」と感じたりもする。
ただその2つのあるべき姿をグラグラと揺らすのは、華やかな蠢きと触れた「書の多様性や取り組み方」だったりもするのだ。現に井上有一らのいた墨人会は日展不参加を明文化するなど「圧力からの解放」ということでいろいろやっていたようで、その活動自体は「楽しみと成功」をよりストイックに追求すると「怪我をさせてはいけない」ということが保てない場合があるような危うさを感じる。「表現の追求」の眩しさが、炎天下のみみずの命を奪うような状態とでも言おうか。
今は、と今更触れるような話でもない気がするがSNSの発達の影響をプラモデルや模型が受ける時代になってるっぽい。制作レポ的ではないnoteやblogを運営している方も増えてきていて、10年ほど前のファッション界隈と同じような流れをなんとなく見かけることが多くて、だから「どういうことが起きてるのか」は大まかに掴めている。「自分はこう思う」を作品や文章で見せるタームになってきた、かな?
雑誌でしか知り得なかったコンテストモデラー的な賞賛すべき美しい作品たちと違う方向でのカジュアルモデラーの楽しみ方が写真と文章で語られ始めていると思うし、自分もその一翼を担ってると思いたいのだけど、この辺の人がにわかに観測されているのが「今」という感じで、まさに多様化の時代。
あるいはリニューアル直後のPOPEYEが「シティボーイ」と今まで観測されていたが名前のなかった人たちに名付けたような感じで、もともとあったものが可視化されて来たという気もする。
自分の楽しみ方を、俺はこういうトライブ(部族)であると舞を踊って見せるような日々がもっと激しくなってくるとシーン全体がぐしゃぐしゃになって来て超新星爆発といった感じになるかと思いますので楽しくいきましょう。
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