Re:11colors

毎週木曜日更新(2023年5月現在)。模型、日常。面白いことあれば他の日も

植物とプラモが並ぶのが楽しい。

 

植物のそばに置くプラモデルはマシーネンクリーガーが良いなとかねがね思っていたが、それがついに実現して非常に満足している。パワードスーツのような中に人間が入っている様子がにじみ出ているものは特に相性が良い気がする。

人が立ち入れない空間に文明を駆使して乗り込み、そこで豊穣な自然という神秘的なものに出会うというようなストーリーを勝手に想像する。これがフィギュアだとちょっと違うし巨大ロボットだともっと違う気がする。「調査に行く」という雰囲気がほしいのだと思う。

 

ついでに、マシーネンについて自分が思っていることをこのまま書く。

抜群にいいなと思うのは、積極的に情報を集めないと「この塊はなんだろうか?」と世界観がわからないことだ。反対に映像がしっかりと残っているものとかだと、ついつい引っ張られてしまうというか、勝手に学習してしまう部分がある。

その辺はアニメでも映画でも史実でも共通で、例えば戦車一つ置いてあっても気づいたらその戦車がどういうものなのかという意味を認識しだしてしまう。「全くわからないけど、なんだかカッコいいプラスチックの塊」という役割を、長い間果たしてくれるのはマシーネンくらいだ。

 

 

それでいて、横山宏のデザインと、描き出す世界観がしっかりしているのが良いと思う。造形の面白さはもちろんだけど、デカールなんかも他のプラモと一味違う怖さとかわいさがあるのが愛おしい。

 

なので、何も考えずに塗装してもデカールを貼ってしまえば割とうまくいくみたいな感じがある。ただ、デカールを貼れば貼るほど横山ワールドの住人になっていき、自分が生活する空間から離れていってしまうことを今回は感じた。収納の達人に部屋を任せたら、素敵だけどなんか居心地は微妙……みたいな。

とはいうものの、プラモデルを作るのは買った人なので好きなように作るのが良いと思う。私は、横山ワールドに入りすぎないように眼を模した塗装のデカールは一度貼ったものも剥がした。

 

マシーネンクリーガーというジャンルで面白いなと思ったこともある。それは、どの兵器も一様に顔のような部分があるということ。人の目がぱっと行くところという意味での顔だ。今回作ったラクーンに関して言えば、頭頂部のハッチがそうだと思う。

私が素敵だなと思うマシーネンは、なんというか顔芸が上手なものが多い。一定の点数まで顔芸を到達させるという点でのデカールという見方もできると思う。今回作ったラクーンもやっぱり顔芸として魚の骨のデカールを貼った。

 

なんだかわからないけどカッコいいものは見ていて眼が癒やされる。ラクーンはキッチンに置いてあるのに、何回も見に行ってしまう。逆に意味を持ち出すとそれについて考えてしまうので、スッと目をそらしたくもなる。そういう点では、最近植え替えたパルダリウムは生育状況の良し悪しが気になって仕方がない。水をやりすぎて枯らすなんてことのないように、なるべく見ないようにしている。例え隣同士に並んでいても。

 

今週の物販

 

 

 

初めて1人で観劇に行ってきた話

 

ライブだと自分も含む客は騒いで踊る。映画だと物語を見ることにはなるが、生身の人間が目の前で何かをするわけでない。観劇というのは目の前で人が動いている様子を座って見るという、ライブと映画の間のような娯楽っぽい。

 

足を運んだのはシアター風姿花伝というめちゃくちゃおしゃれな名前の劇場。こういう所へは初めて行った。狭いか広いかはわからないけど、とにかく演者と客の距離が近い。それに、舞台は特別高いところというわけではなく、ほぼ地続きな感じ。とはいっても、あっち側とこっち側を区切るような超えてはいけない線が存在するような気がするのが良いと思った。

 

 

線、という意味だと俺が店員をやっていたころは友達がリアル、ネット問わずバコバコ店に来たし、常連の人ともめっちゃ友達!みたいになったこともあった。「これでうまいもんでも食えよ」ってポケットにお札入れてきた人もいた。そういう仲良い人と一緒にいるときに、このまま向かいの席に座ってグダグダ話せると最高なのになって何度も思った。やめるときに手紙をくれた女の子もいた。ただ、そこには客と店員というはっきりとした線があって、当時はそのたびに足元を見て「線がある」と思ってた。舞台と客席の線もそんな風に見えた。

 

劇場の客が通るところしか知らないのも境界を知覚する要素だと思う。「まさかあの百貨店は地下六階まであるのか!」みたいな裏側を見ることができない感じ。楽屋とかそういう演者の領域があることを知ってはいるが、どこにあるかがわからない。見る側が入れない空間があるというのが少し神聖な感じ。

 



 

演者と客の距離が近いと何が起こるのかというと「こっちを見ている!」と錯覚してしまうときが何度も訪れる。狭い空間で少人数が見ているという場の特性が余計にその思いを駆り立てる。多分、こっちを見てはいるけども私を見ているわけではないだろう。ただ、客席に向かって芝居をしているときや、最後のあいさつでバチンッと目が合うと「うわっ」となるのがすごかった。カラーレンズのメガネを掛けていなかったら思わず下を向いたかもしれない。次も絶対かけていく。

 

好きな俳優がいれば、その人が出る作品をなんとなく追っかけるのも面白い。私はショーケース形式という、複数の劇団が短編を演じるのを見て「この人いいな」という感じで、興味を持ち始めました。

 

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今日の物販

 

 

 

 

 

 

 

生き生きとした日常があるといい。露と枕 番外公演 連作短編集『雨のかんむり』

 

聖なるものという言い方が正しいのかはわからないですが、そんな感じの公演でした。

 

露と枕 番外公演 連作短編集『雨のかんむり』を見に行った。「生活と加害」というテーマで3篇のエピソードが上演されるものだった。テーマの面白さと見守る人間の大事さがとてもよくわかる、良い話だなと思った。

 

最初の「霾[つちぐもり]」は石の雨が降ってくるという災害があってから1年後の話。復興活動で生活をともにする2人なので見守る人間がいなくて、生活と加害というテーマを露骨に浴びた。被害者だと思ったら加害者……というの立場の逆転がわかりやすい。

 

2つ目の「霖[ながあめ]」は半年後の話。出てくる人数は増えて、会議を題材としている。話すべき話題と感情の発散がごちゃごちゃになっている中で、バランスを取ろうとする人がいる。彼女は見守る人間ではあるのだけど、途中でうまく行かなくなってしまう。その後の振る舞いが、若いときの自分と重なる部分もあったので笑いながら見てしまった。どこか忘れたけど、私だけ笑っていたところがあった。

 

3つ目の「霤[あまだれ]」は3日後の話。避難所での暮らしを書き留めている女性と姉妹が出てくる。この話は見守る人間がはっきりと存在している。受付を行っている妹だ。野球のキャッチャーみたいなもんで、他のポジションと向きが違うので視点も異なる。見守っている分、わかっているという感じで変に肩入れしたり熱中していないので「そのときはそのときだよ」と言っちゃう感じが最高。全体の様子を見守る人間は必要なのだ。

 

 

3つの話が現在から過去にさかのぼっていく構成がよくできていて、後で妙に納得してしまった。

 

「霾[つちぐもり]」は一年後ということもあって、災害に関する書籍が出回ったりしていて、物語としての消費が始まっている。物語になった出来事に感銘を受け、使命感から携わっていく人が現れるというのは、現実社会でも結構あると思う。後から加入してくる人という感じで、こういう人たちをなんと言えば良いのかがよくわからない。

 

「霖[ながあめ]」は、状況が落ち着いてきて、なんとか生きていける中でコミュニティが機能しだしたからこその活気があると思う。活気の元になっている全員が関係者で、再生に向けて転がりだして、勢いが出ている最中ってこんな感じだよな……とも。各々の「こうしたい」という気持ちが交錯しすぎるんだよな、こういうときって。言ってることと本音が違ったり、正しいと思ったら正しくなかったり、なんかよくわからんが思ってたのと違ったりとか。熱意はあるがゴールがない、まとまらない会議そのものでリアル。

 

「霤[あまだれ]」は今は生きているけど、割と真剣に「明日はどうなるかわからない」という状態。だからこそ、それぞれが立場を全うしようとするのだと思いながら見ていた。受付をする、探しに行く、取材をする。どれにしたって、思ってることとやっていることがストレートにつながっているのが気持ちいい。変な計算もなく、持ち場を自分で決めて生きている姿が真っ直ぐで、ぶつかり合いすらも綺麗だなと思って見ていた。

 

こんな風に関わる人達の純度のようなものが公演が進むにつれて高まっていくのが面白かった。

 

 

プラモなんか作ってると第二次世界大戦をモチーフにしたものが多いのでたまに「どうしたもんかなこれは」と思ったりもするが、陸上で繰り広げられたアレコレは人間も含めてプラモデルになることで生きている様子を感じることができる。70年以上前の出来事にドライに触れて、プラモデルとしての設計が面白いとか、「休憩中はトランプとかやってるんすね」とか、感想を述べる自分がいる。

 

「雨のかんむり」では災害から1年後の「霾」が現在に近いのだけど、100年後に、当時の災害がプラモデルになったりして、本を開くわけでもなく、風化を防ぐための活動というわけでもなく100年後からさらに何十年経ってもおもちゃ屋の棚に積んである。なんてことがあるかもしれない。それくらいにどの話に出てくる人たちは生き生きとしていた。

 

というか、大体の日常が今も昔もどんなときも生き生きしているのかもしれなくて、私はそれを公演を通じて感じたのだろう。

 

 

今日の物販

 

なし