Re:11colors

毎週木曜日更新(2023年5月現在)。模型、日常。面白いことあれば他の日も

今日がお前の命日だ

 

今日は私の父親の命日だ。2012年の今日、肝臓がんで息を引き取ったが、私が生まれ物心がつく頃から高校生になる00年代の初頭まではずっと革靴を作っている人であった。

私はブラック企業で働いてしまい、大人になったのに結婚も、彼女も見せてやることができなかったのは親不孝だなと当時は思った。

 

革靴産業について少し調べてみるとわかることだが、量産品の革靴作りというのは分業制をとることが多く、我が家は製甲と呼ばれる作業を行う家であった。「靴を作っていた」という話をすると、ここ何年かの決して産業としては発展したとは言えないが上がっている靴界隈の熱量や漫画の影響もあって、工房を構えてイチから(いったい何が彼らから見たイチなのだろう)最後まで作るイメージを持たれるが、実際はそんなことはなく2階建ての家の一階の一角が仕事場で、黙々と製甲を行うといったもの。

この辺は逆に、靴作りに関わっている人の何人かと話すと「製甲屋さんね」といわれるので、消費者と生産者で見えている絵が違うなぁといつも思ったりしている。

 

00年代の半ばからはいよいよ生産拠点を外国に奪われることが本格化し仕事として継続することは難しくなったので父はさくら水産で働き出したが、それはそれでどういうわけか楽しそうに働くというか、不満1つ漏らさずやっていて、あとは家での仕事なので時間の使い方が割と自由(といっても全盛期は朝8時から夜中の11時まで毎日働いていたので、「仕事が休みだ」という概念を知るのはかなり遅かったが)なので私がやっていた少年野球の方の監督だとかコーチだとかをやって、その後は大会運営の方に手を広げていってデカい大会をいつの間にか作っていた(荒豊杯って知っています?)。

 

私は中学の頃に完璧に干されてしまい、野球をプレイすることに関心を失ったのだけど大人になってふと、父親が運営している大会を見に行ったら私が6年生くらいの頃のレベルの試合を4年生が繰り広げていたので、試合数が増えれば増えるほどチームが強くなり、地域が強くなるということをまざまざと目の当たりにしたのであった。

 

癌になった後は大会の引継ぎみたいなのを数人の若手と病院で行ったりもしたのだけど、めちゃくちゃ印象的だったのは最後の最後まで靴作ってたこと。テレビの前に丸台って切り株みたいな木を置いて仕事してるの。

 

あとは、亡くなったら作れる人がいないからってその靴は廃盤になったりとか、その数年後にそれを履いている人を見かけてびっくりしたのとか。それと、後で知ったのだけどいつだったか取引先のあれこれで型紙を渡すことになっちゃうんだけど「あれは型紙を見ただけじゃ作れない」って言ってた話とか。

 

面白いなって思うし、俺が人にあれこれ教えるの好きだったり、nippperの記事の作り方をたまに公開しているのって結構このエピソードの影響受けてる。

結局真髄は教えたことそのものには宿らなくて、そのあとに実践していく過程で獲得していくものなんだなっていう感じが頭の中に残っていて。だから実践して、気付いて、それが文章として上がっているのを見るのは楽しいなって思う。

 

今日は父の命日だ。特に意味のない話だし、なんだか無神経にシェアされそうな予感のする革靴の話もケアしながら書いた。

 

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まぁ、これは私の気持ちの問題でもあるが、どういうわけか革靴の話は無神経にシェアされる。理由はいくつかあると思っていて、その中には「SNSを通じて知識を共有してオシャレになっていこう」というまぁ、なんていうのかな、昔だと「ファッションクラスタ」なんて一家言ある人が争いではなくバトルをしあうみたいなのがあったんだけど、それと違って「知識共有層」の持つ「有益なものはシェアしよう」という、まさにSNS的な「ネットはみんなのもの」的なノリと革靴ってちょっと相性がいいのだと思う。

 

ただ、みんなのものであるということは同時に個々人のものであるし、このブログは私のものなので、一見みんなのものに見える私のものの筆頭のRENDOの記事なんかはとっくに非公開にしている。「これは良い!真似しよう!」って思うのは良いけど、言うのは違うというか。良いと思うなら自分で買って、記事にして書けばいい。そうして靴の面白さを自分の心に沁み込ませていくのか、ただ「コスパの佇まいの良いもの」として食い物にしてしまうのかはずいぶんと違うから。

 

そんな目に合うことが多くて疲れてしまい今は革靴の話はブログにはそんなに書かないし、書いてもそうされたらすぐ非公開にしている。じゃあ、お前は何のためにブログに書いているんだって言われたら、ブログが好きだから書いてるってだけで発信したくて書いてるわけではない部分もあったりするので、その辺は難しい。

 

例えばプラモデルの記事は、プラモデルという存在そのものがあまりにも語られていない空間が多いので、そこにピックを刺してガイドロープを渡すみたいな感覚でとにかく書かれていなそうなことは書いておく。しかも知ってもらって仲間が増えると嬉しいのでアクセス数が伸びると良い。

 

反対に革靴の話はそんなバコバコ、ネタ消費的に「この人のオーダーいいですよ!」みたいなのはうんざり。極論だが、俺のオーダーやエイジングのがかっこいいのは俺が持っている服の色だとかがあってのものなので。

 

まぁこうして書いてみるとネットの中で閉じたり開いたりっていうのはそもそも個々人の心意気次第なんだなってのが良くわかりますね。もちろん、属性の付いたサービスもありますが、ま、そんな感じで、父の命日だし、俺は俺でたまには言いたいことをいつもの倍以上の分量で書いてもいいでしょ、という記事でした。

Making nippper 超具体的とかいう打楽器

石井ゆかりって占い師がいるのだけど彼女はライターとして文章力を上げるために継続的に書き続ける必要性を感じ、毎日書ける題材として占いを選んだ。彼女のサイト名が「筋トレ」なのは文章は筋トレのように継続することで培うことができる部分があるということから来ている(昔ラジオでそんな話をしていた)。

 

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文章や言葉は今もなお最速の表現手段として存在しているし、誰もが取り扱うことができる便利さもある。それ故「いつでも書ける」と思えるし、気分が乗ったときにかけばそれなりのものが書けるという面もある。

ただ、「気分が乗ったときに」とやっている状態はポケモンのように4つのわざがスロットに入っている状態ではないので、いつどういうようなものが書けるかというのは不確実だし「書けるときに書く」というのは、「書ける」と思って書いているので出来上がったものを見て「書けたな」と思う確率は非常に高い。ではそれが書けているかどうかを誰が判断するのかというと、自分以外の読み手だったり、もっというとその読み手がなにかアクションを起こすことで「あなたの書いたものは合格です」というような結果となるのではないか。

 

まずは、たくさん書く、気軽に書く、思うがままに書くというのが土台にあって、その上に合格かどうかという話になるのだけど、それこそポケモンのわざみたいにいつでも選んで出せる技術があるとちょっと楽(何が楽なのだろう)。

文章を書いていて思うのは、無意識的に身につけたものと意識的に身につけたものがあるということだ。レベルアップで覚えるわざと、わざマシンで覚えるわざ。みたいな。

 

例えばこうして書いている文章の中にも出てくるカッコを付けてツッコミを入れたりするやり方って少しナンシー関っぽい。で、俺はナンシー関が好きかというとまぁ好きといえば好きなんだけど、ナンシー関のエッセイのあとがきに「カッコを付けてツッコミを入れるスタイルはこの年代の特徴だ」みたいな解説があり、そこでわざマシン的に覚えた。「ああ、そういうやり方があるのか」って。

 

そんな形でわざマシン的に覚えたのが「超具体的」という方法。

これはセールス・ライティングという本にも載っていたが4Uの原則とかで調べるとすぐ出てくる、文章作成術のテクニックでUltra Specificと英語では言うようだ。

 

nippper.com

 

この記事ではそれを意識して書いているので文中には具体的な表現が多い。

 

・道具はいくつかの箱にまとめて本棚などの収納スペースに、プラモデルの箱はクローゼットの上に。

・タッパーに入れてしまっておきます。

・最初はお菓子の缶に入る程度の道具と「これくらいなら自分で作れそうだな」という大きすぎない箱の中に入ったキットから始まる

 

お菓子の缶だとかタッパーを「そのへんにある適当な箱」とは言わなかったりそういうところにいちいち超具体的をふりかけているんだけど、これが結構難しいと言うか、ついついネットノリみたいな感じで(ああ、つまりそう。読んだものしか書けないみたいなことは往々にしてある)「そのへんにあるテキトーな箱にブチ込んで」なんて書いてしまったり「手頃なサイズの缶にパパパっと仕舞って」なんてやってしまうこともある部分だと思う。

そこの無意識を意識のコントロールで塗り替える。打楽器のように「タンッ」と響く心地よさで整備してあげる。そこに書く面白さと読んでもらえる可能性が上がる秘密があるように感じる。あるから4Uの原則なんて書かれているのだけど。

 

俺が文章を書いて思うのは「書こうと思っているなら書かないのはもったいないな」ということだ。書くというのは、最初にも触れたが大体の人ができる(と思っている。私は、どうだろう?)。ただ、継続して書くみたいなことをする人が少ない。とは言うものの絵や写真よりも早く、かなりの速度を持った表現手段で手軽に扱える。特別な機材も設備も必要ない。

繰り返し書くことで基礎体力を着けると4Uだとかそういうことが気軽に分かるようになって取り扱いやすくなる。

 

ブログでも、noteでもなんか、いい感じに書いてみると良いと思います。

とりあえず今日は具体的に、という話でした。

 

俺の文章が具体的っぽいのにちょっと抽象的になるのは抽象的な文章をとりあえず書いてみたりしたり、あとは海外のものを翻訳した記事をなんとなく読んでいたからかなと思ったりもします。

 

「これくらいなら自分で作れそうだな」という大きすぎない箱

 

とかね、なんか海外っぽいよね。

 

前の記事

 

re-11colors.hatenablog.com

 

今週の物販

 

 

ペンで描く

ペンで描く

 

 

 

何がどうして (角川文庫)

何がどうして (角川文庫)

 

 

 

 



生活とプラモデル

例えば、木曜日の20時くらいから22時くらいまでプラモデルを触って、金曜日は同じ頃に始めて、26時とかまで頑張る。場合によっては明け方になろうが問題なし。

 

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で、土曜日は午前中か昼間には起きて日光が差す窓辺だとかで、その時間にしか撮れないっぽい写真を撮る。撮影ブースとかそういうのは構えないで、なんかいい感じにまとめる。それくらいがプラモデルを楽しむのに良い時間なのかなとたまに思ったりするが、そんな提案を急に模型誌が始めるとも思えないのでなんとなくこうして書いておく。

 

プラモデルはもうちょっと生活にくっついたりする可能性があるんじゃないか、というのを少し信じていて、例えば鍵を置くところに飛行機がいるだとか玄関先や机の上に人がひとり立っているとかそういうのが面白いと思ってる。

 

自分の目を癒やすためにあるというか、作ったもの一つ一つに少しだけ愛情が注がれるような時間が流れるのが楽しい、みたいな。手塩にかけた本気の作品が博物館よろしく飾ってあるのもいいけど、それはそれでぞんざいに扱えない荘厳さとかずっしりとしたまごころの塊みたいになってしまったりしてうかつに触れなくなったりしちゃう。

 

プラモデルの面白いところは最低限の美しさみたいなのは担保され続けているところだと思う。例えば俺なんかは靴の絵が結構描けたり、それを元手に広告賞をもらえるような広告もつくったこともあったけど、じゃあそれを部屋に飾ろうとは思わない。自分で作ったのに他人が監修した美が入っているのがプラモデルの愛すべきところなのかもしれない。作品を買った感覚が少しあるというか、誰かの素晴らしいセンスをいただけたというか。

 

暇だし本でも読むかー、くらいの感覚で楽しめやしないかなんて思ったり、自分の身の回りの空間だとかそこに置かれたものが持つ面白さを引き立てることができるのがプラモデルなんじゃないかな、なんて思ったりする。今日の写真は玄関先で撮ったが、そうやって自分の生活空間を把握していく楽しさの鍵になるんじゃないかって。

人や小さい飛行機なんかは、特にそう。すぐに作れて、それとスマホを片手に部屋を探検していい写真を撮るみたいなのはものすごくやりやすい。

 

今週の物販

 

 

ミニアート 1/35 ソビエトの村人 プラモデル MA38011

ミニアート 1/35 ソビエトの村人 プラモデル MA38011

  • 発売日: 2017/08/30
  • メディア: おもちゃ&ホビー