「変態技術」流行ってますね。変態的な技術。素晴らしいものをその様に評します。
バンダイの模型なんかはそう言われるみたいです。
日本のラッパーって銃とか薬物の話するじゃないですか、一昔前の話ですけど、たぶん今もそう思う人いると思います。日本は平和なのにってよく言われていました。私はHIPHOP大好きです。
少し前にJEVAってラッパーが好きになって、彼が「貧困や薬物、そしてそれを追うFBI」というアメリカンギャングスタライフに対して「田舎の百姓の俺がいる」って話をするんですよ。考えちゃいますよね。様々な絵空事や楽しい想像や、あるいはそれに浸っている人たちに対して、そういうリアルな俺がいるって。私なら、転職して暇な時間に模型ばっかり作ってる俺がいるんですよ。
そんな風に思うと海の向こうのような変態技術と、タミヤとかハセガワのような徹底的なスタンダードな姿が面白く見えてきます。マジな話、タミヤもハセガワもすごいんですよね。あえて言うなら十分変態。本当に。でも慣れきってしまっている。
「慣れきってしまっている俺」
みたいなのがずーっといるんです。多分みんないます。考証することに慣れた俺、雑誌の作例を隅々まで見る俺。いろんな俺がいます。で、「田舎の百姓の俺」みたいに現実をリセットすると、怖いです。ハッとしますよ。
「いつ、誰がパーツの嵌め合いの良さを褒めて、それを良し悪しの定規に当てたのだろう」
みたいなことに気づきます。なんでパーツのすり合わせをしないといけないの?完成度って何?みたいな。ついつい知ったふうに追ってできるようになって話しちゃってないか。とかなんとか。
目の前にあるタミヤイタレリのグリペンはキャノピーに少し隙間がありますが最高にかっこいいです。なんででしょうね。イタリアは、彫刻の国と呼ばれ、車のクレイモデルなども粘土を盛るという行為はしないそうです。削る過程のみで生み出す形。あれ、イタリアの模型の文化が少し見えてきた。靴などもわざと手縫いの様子やグラデーションを誇張するんですよね。あの飛行機は決定版ではなく、できはそれなり。なんででしょう?
「色を塗らないといけない」って誰が決めたのでしょう?なんて屁理屈も田舎の百姓だという彼の気分で一歩足を伸ばすと「色を塗るって決めたのは誰だ」って思ったりしてきます。そして「それに従うのはなぜだ」って。本当に見たかった、歌うべき景色は何なんだって。
全部を塗らなくて良いとは思わないけど、塗らない模型も最高だぜと言えるくらいにはなってもいいと思います。
一つの楽曲もアカペラで歌ったりアコースティックバージョンだったり、テレビ番組では生バンドが後ろにくっついてたりすると随分と違う姿を見せてくれるものです。模型は割と、そういうのが多様な割についつい、音源に忠実であろうとしちゃったりあるいはその音源の良さすらもなにかに従って消したりしてしまわないでしょうか。
あの子の声、キンキンうるさいから、調整しといてって、特徴のある声をアレンジしてしまうように。
↓模型はもれなく組み立ててブログにのります。
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