この車が欲しかったから作る。この戦車がかっこいいから作る。俺たちはいろんな理由でプラスチックが入った箱を買い、開け、バラし、組み立てる。
バラし? そう。プラモデルは一回パーツを切り離す作業があって、組み立てる。そこに注目すると「プラモデルみたいなもんだよ」という例えは、その対象を適切に表現しているわけではないと気づく。そういうものは大体は、部品を組み立て、完成させるから。
俺たちは、プラモデルと自分を様々な絆で繋ぎ、それを買い、組み立て、「完成品」として形にする。完成とはなんだろうと考えると、おそらくこれは「遊び終わった」ということになるのだろうか。しかし作り終わるとこれはこれで、部屋に飾り、写真に撮ったり、相性の良いものと並べたりする。ここでもやはり遊んでいるわけだ。
この辺りをどう伝えるのかというと、これは寄藤文平氏の「絵と言葉の一研究」に記されている「絵と言葉が組み合わさると絵でも言葉でもない何かになる」と言った旨の話が面白い。
これは水は水素と酸素が結合してできるが、それ(水)は水素でも酸素でもないものだというような例えとともに書かれた文章だが、ランナーと結合されたパーツは一度ニッパーで離れてしまうとそれらは互いに結合しタイヤを作り、シャーシを作り……といった具合に様々な姿に変えてやがて車や何かの形になると考えられなくもない(というか事実そうだ)。そして、目の前には「パーツとパーツが組み合わさった、パーツとパーツが組み合わさったものではないもの」が現れる。
おそらく、設計をされ形にされる方のセンスやアイデアが出るのはパーツの、このギリギリのバランスだろう。パーツがどの部分を表現してるのかを分からせる、あるいは分割しないで一体成形で。とか、そういうところで、俺たちに分かる程度の化学式を作ってる。この話をこうしてなんとなく頭に入れてみると、このタミヤのロードスターの動画でホワイトボードに描かれたパーツの絵が急に化学式に見えては来やしないだろうか。
50分辺りからです。
こうしてパーツとパーツが結合した、パーツとパーツが結合しただけではないもの(車というとにしよう)は次の遊びに映るわけだが、ここでも、今度は土だとか草だとか、あるいは動物の置物だとかと結合する。車が、家にある人形を巨人にもするし妖精にもする。今度はそういうところで結合しだす。
結合が、客観的に正しくできているかを判断するのは難しい。例えばその土の粒は車と同スケールの大きさなのか?と言われるとわからないが、それらしく見えていることでそれは正しいとなるだろう。
また、話は少し戻るが、色を塗るだの塗らないだのも難しい。意図があってどんな色に塗ったのかとか、どのような質感にしたのかとか、そういう話がきっと俺たちにはわからない組み主の世界にあったりもすると思う。
そこにある理由があまり明文化されていないか、あるいは本物を目指したものが多く見られるのはまだ、この分野での学会が発足されてなかったり研究が進んでないからだ。
端的に言ってしまえば「キットを買う」という行為が「いつかは完成(組み立て終わる)することの約束」であり、通常はパーツを1つ1つ切って貼ってく行為はその約束を反故にしないための約束で、そこにはわずかに一貫性の原則が働いてることに過ぎないわけだが、その中には本当はもっともっとそれぞれの気持ちだとか、何かを求める感じとか、そういうものが詰まっている。
飽きないうちに、興味がなくならないうちに。
何か一個作るとこの遊びの面白さが見えてきます。
そして、それを文章に残して、伝えるのも、とても楽しいので、やりましょう。
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