とてもうまくできたなという模型があって、それはいつどう眺めても美しい。主観の強い世界ではあるが、我が家に飾っている限りは、直でそれを見る人間は限られているので悪いことではない。
出来が良くて通称だけでなく、F6Fという番号も覚えてしまった。
塗装してるときにふと思い立った翼のムラ表現。筆の感触に好印象を覚えたので何かできる気がして、分が悪くない賭けに全額ベット。ダメならそのまま塗って仕舞えば良い。
結果は思ったよりもずっと綺麗。これは筆ムラではなくタッチだ。ペン画で特定の面をさまざまなタッチで埋める練習をしたがそれを思い出す。動きがあり、曖昧な表現。見ていれば揺れるし、漂う。風合いは空。その癖、遠くから見る分にはそれがわからない。
ただし、問題はここにあった。これだけ自在にタッチを操れるのなら、綺麗に仕上げることも可能なはず。翼以外のところは正にそう仕上げられて、綺麗だ。工業製品のような硬質な魅力を纏わせることは容易だろう。これより綺麗に仕上げられる自信と、今目の前にある綺麗さがぶつかり合う。
模型の危険な所があるとしたらおそらくここだろう。つまり、瞬間的に現れるこういった美しさや危うさを上から塗りつぶして自分から失えることだ。
途中で止めてしまうことが難しい。
綺麗に仕上がったその塗膜の下にどんな途中があったのだろう、途中だからと、何度見逃してきただろう。とりあえず、と最初の一層をどうしてきたのだろう。今だってこうして思う、「よかったから途中で止めたんだ」と。つまり、これは途中なのか完成なのか?ただ、こうしてプロペラをつけて形にすれば、瞬間を切り取り、止めることができる。
このヘルキャットは私がコルセアを思いのままに、誰かに何かを伝えるために、色も塗らずに仕上げてしまったので買われた「代わりのキット」である。本当は均一にネイビーで塗られ、そのエリート然とした素晴らしい姿と重厚感を持って我が家に鎮座する予定だった。もし、コルセアが綺麗なネイビーで仕上げられたのなら、このヘルキャットは存在しなかったことになるし、こんな風に途中の姿をOKとされて無限の可能性を秘めてしまったのは、二機目のコルセアじゃなくて、ヘルキャットを買ったからだと思う。
私はこういったことは模型の(あるいは買い物全般の)最も楽しい出来事のうちの一つだと思っている。前の模型が今の模型に影響を及ぼしたり、今のそれが将来的にそうすることがわかるのは、わざわざ作ることの意義の一つだろう。「これを作ろう」という強烈なビジョンが雲のような気持ちにかき混ぜられて変化する。
↓模型はもれなく組み立ててブログにのります。
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