仕事の役割が変わり、出社するメリットがほぼない状態になった。というかデメリットの方が多くて、そのせいもあり在宅勤務の日数がものすごい増えた。数年前は毎日出社していたので、環境の変化激しい。
在宅勤務をしていると、誰かに声をかけられることもなく、業務に集中できる。慣れると、非常にありがたいシステムだなと思うようになった。ただ、却って息抜きが上手にできず、ずっと座って何かをしていることにある日気づいた。出社すると、あっちにあれがある、こっちの誰に話をしに……ということがあるので、結構出歩いていて、それが息抜きになっていたようだ。その代わりに最近は朝や昼休み、夕方に近所の公園まで行くようにしている。夕方に公園に行くと、小学生が遊んでいることが多くて、缶コーヒーを飲みながらぼーっとしていると自ずと彼らの声が聞こえて来る。
「俺はそっち側の人間なんで!」と何度も繰り返す男の子がいて、それは自転車で行ける離れた公園にいる女の子たちに水鉄砲をお見舞いしてやろうという話をしているときの声だった。漫画でなかなか描かれることのない、その遊びに対して彼は、それをやったら自分が学校の先生に報告するというのだ。「襲撃しようぜ!」という、テレビか何かで覚えた言葉で、グループを焚きつけるリーダー格の少年らは困惑して、数人でなんとなく公園を後にしていた。
その様子は、明らかに同調圧力をかけている側に対して、あんまり納得いかずにもついていってしまう……というありがちな展開ではなく非常に新鮮に映った。「俺は先生に言う、そういう側の人間だ!」と何度も主張する姿に、圧力を受ける側の小学生も強いもんだな、と妙に感心してしまった。
別の日は野球道具を一式持った集団がいた。遊び用のプラスチックのバットに蛍光色のボール………と思いきや、ボールがないらしい。なんだかずっと大声でやり取りをしている。どうやらボールを紛失してしまったようで、探しても見つからないようだ。もう一度探そうとか、誰が悪いとかずっと話している。「家に帰ると他にボールはあるのか?」みたいな話もあり、脱線しながらも、彼らのボール探しはずっと続いている。
それを見て「ボールひとつくらいでバカだな」なんて思って見ていたのだけど、小学生としては大きな問題だ。よく考えれば自分も同じ歳の頃に、父親とキャッチボールをしていたら明後日の方向にボールを投げてしまい、ボールがなくなり、怒られたことがある。ものを無くすということの恐怖感は子供の頃は計り知れない。
とはいうものの一方で「バカだな」という気持ちもぬぐいきれない。ただ、ふと我に帰ると自分も「何をそんな必死に」と思えるようなことがあることに気づいた。仕事をしていて、些細な失敗というか、正解を選べなかったことに後悔をするときがある。あと、デフォルトで丁寧にやりすぎている仕事というのもがあって、思うように進まないとがっかりする。どっちにしたって、気疲れが発生する。
多分、私が感じる後悔やがっかりも小学生が無くしたボールと同じなんだと思う。「何をそれくらいで、バカだな」という話だ。「とっとと謝ればいいだけ」だとか「数百円のもので何を必死に」なんて彼らは大人になったときに振り返るか、それとも、その後の人生に起きる色々な出来事に対して、ボールの件があまりにも些細すぎて忘れてしまうはずだ。
大人になると、さらに大人になるみたいな明確にステージが変わるシーンは少ないので「振り返れば些細なこと」と視座が変化することはあんまり起きない。はっきりと環境が変わるというと転職をするとか、遠くに引っ越すみたいなことがそれにあたるのだろうけど。なので「ボールをなくして必死になって、バカみたいだったよな」と思えることってあまりない。
小学生を見ていて「ボールをなくしたくらいで大変だな」と思うように、私も自分のことを「それくらいで、大変だな」とその日以来、思えるようになってきた。今の仕事はそこまでガチでやっていないのだから、そうやって自分を自分で眺めるみたいなことがしやすいのだと思う。必死になっていた前職では仕事のことばかり考えてたけど、今は他にもやることがたくさんあるのでバシッと定時で帰るし、という。
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