面をザクザクと区切っていくように筆を運んで、バランスをとって塗る。
単純なビートに身体を揺らしながら気分の良い時間を過ごす、みたいな感じで頭の中の感覚が筆を通じてプラモデルに痕跡として残る。雷に感電した人に残るといわれる模様のようにバリバリと入っていく感じ。「なんとなく」でまとめていて明確なロジックはないので本当に「バランス」としか言いようがなかった。ただ、それを見た人が「いいですね」と反応してくれると嬉しくて、またやる。具体的に褒めてくれれば「俺はこのなんとなくの世界で生きていても良いものが作れるんだな、センスがあるな」と悦に浸る。楽しい。
その”センスの塊”が部屋に並ぶと、ふと気づく。「これはクセの塊だ」なんて。
確かに投げるボールはめちゃくちゃ曲がったり落ちたりするけど、投げる段階でクセとしてわかってしまう。なんてことになってはいないだろうか。俺の筆塗りのほとんどは冒頭に書いたように、大きなタッチで塗り進めていってそれぞれの色の重なりでバランスを取るというやり方だ。あまりにもわかりやすいクセであり「これが俺の塗装」と納得しそうになる。そして、これを消してみたらどうなるだろうか。
極力いつもと違う塗り方をする。普段とは違う筆で辛抱強く塗っていこうとするけど、面に大胆に色がつかないことに不安になる。なんというか、ものとして成立していない時間がいつもより長い。その姿を見ているのが怖い。
俺は左利きで、子供の頃右利きに矯正されそうになっていたが右手で書くひらがなのあまりにも汚い様を見て保育士の目を盗んでは左手で書いていたのだけど、それを思い出す。左で書いた方が綺麗だし、早い。大胆に塗ってしまった方が綺麗だし、早い。ただ塗装は遊びで利き手のような深刻な話ではないのでおとなしく耐える。ずっと塗っていく。色と色が重なると面白くなるはず……ならない! やばい! でも耐える。様子を探る。手に持ったプラモを顔から離して見る。「あー、これはそういうことか」と気づいて塗り進める。
軌道に乗り出したので、そのまま調子に乗ってフィルタリングだとかドライブラシを試して、どうなるのかを確認する。色調が整ったり、重厚感が出たりして、これが技術として存在することの意味がわかった。不ぞろいのものが揃う感じが半端ない。センスでや技法の足りない部分をカバーしてくれる技術だ。
完成品は今まで作ったものの中で最も複雑な色の重なりを有したものになった。地味に時間をかけながら色を重ねていって様子を見る。これの繰り返し。途中で気づいたのは筆のタッチが変わろうと、プラモデルの面をどう見るかというのはさほど変わらないということだ。
何度も色を重ねてもうまく行かなそうな状態だったものを離れて見て「斜めに、躍動感のある感じに塗った方がいいな」と具体的に思ったときに、筆のタッチがどうこうよりも奥にある個性に気づいた。表層にあるクセはわかりやすい形の個性だ。それを消してしまうような行為はそれをしたことがない人からすると「個性を消してしまう行為」になるのだけど、実際のところはこんな風に深層にある個性が浮かび上がってくる。
今週の物販